就活11
自分の場合、本命の企業とその同業他社数社、さらに面接の練習のために金融を複数社受けた(えてして金融系の面接は他業界より早く始まるので)。2業界で約30社というのがエントリー数で、就留しているわりに大した数ではなかった。
もう書いてしまうが、結局M3の5月頃までに第二志望の企業と金融一社から内定を貰い、自分の丸1年近く続いた就活は終わった。意外とあっけないもので、30社しか受けていないのは短期で決まってしまったためでもある。
見方によっては東大院生が売り手市場ですんなり内定を得ただけであり、実際その通りなのだが、その前年には同じ人間が企業から門前払いを受け続けていたのも事実である。
当たり前の話だが、就活市場は売り手と買い手のバランスで成り立っており、いかなる状況でも同じ学生に同じ値が付くとは限らない。
自分は売り手市場の中で就活を終えたが、後の世界金融危機に起因する超就職氷河期に就活していたら、おそらく全く違った結果となっていたことだろう。
就活がその後の人生に及ぼす影響はかなり大きいが、そこで重要な要素である、就活市場における学生の市場価値が外部環境にかなり左右される点は留意しておいた方が良い。結局運の要素が大きすぎるのだ。
そんな人生をベットした運ゲーをプレイするため、手書きで何十枚もESを書き、時に面接で心無い言葉をかけられ、そして無慈悲に祈られたりする環境を受忍せざるを得ない、というのが当時の、そしておそらく現在も同様の就活生の状況であろう。
これは何とかすべき問題だと思う。自分に妙案があるわけではないが、やはり運ゲーの要素は将来的に多少なりとも緩和されるべきだろう。世代間の極端な機会の不平等は、社会の統合と安定を、極めて不安定化させるリスクがある。
しかし、当事者たる就活生は就活が終われば労働者としての生活に追われていくわけで、継続的に声を上げる主体がいない、という事でもある。また一方で、就活氷河期に不本意な就職をせざるを得なかった世代が歯をくいしばって日々を耐えているのに対し、社会は驚くほど無関心だ。
とりとめが無くて恐縮だが、自分の就活記として書くべきことはだいたい書いてしまった。
一口で東大生と言っても当然色々な背景の学生がおり、今日もどこかの学部で誰かがドロップアウトしつつある。学生数を考えると、この尤度はかなり確からしいと思う。
レールを一度や二度外れても、意外と復帰できるものだ。まあ何を持って復帰というかは人それぞれではあるが。
様々な要因で大学生活が破綻した(或いは破綻しかねなかった)学生の一事例として、自分の恥ずべき学部留年記と就活記(就留記)を書いた。
就活10
就活のポイントの一つとなるのが、同業他社を複数受けた方が学生にとって何かと得だ、という点だと思う。
企業側によくある一般的な考え方として、当社を受けるからには当社の業界そのものに興味を持っているはずであり、また同業他社がこの学生をどう判断したか(選考が進んでいるかor内定を出したか)というのはしばしば有力なエビデンスとなっているようだ。(しかしそれでいいのか?日本の大企業には学生の内面的な資質を見分ける能力がないのでは?というのは毎年提起されるテーマであろう)
同業他社を受験すると、業界の志望動機を使いまわせるので、その分ES作成にかける時間を節約できるというメリットもある。
さらに、業界1位と2位の企業のそれぞれの強みと弱みを把握したうえで、それを志望動機に反映させたら、わりと完成度の高いESになると思われる。
因みに留年の件は必ずと言っていいほど質問された。
自分は適当に、バイトor旅行してました、などと微妙に事実と異なる内容を喋っていたが、本件が選考に影響したかどうかは正直分からない。
一社だけ、最終の役員面接で留年の件を聞かれた会社があった。具体的に学部では何単位足りなかったの?という質問に対し、自分の場合はすぐに答えが出てこなかった。まさか正直に答える訳にもいくまい、としどろもどろになってしまい、そのせいかどうか不明だがこの会社は落ちた。
今回の就活に関しては、ESではねられるという経験はほとんどなかったし、各面接の選考もテンポよく進んでいった。前年に苦戦していたのは何だったんだ、という感もあるが、これが本来の学歴の力というものなのかもしれない。
学部留年10
筆を擱くと言っておいてすぐに再開してしまうのだった。
学部で留年する羽目に陥った状況について、かつて自分なりに分析・総括しようと試みた。いや、大学を出た後も未だにこのことを考え続けている。
3回生時に以下の二点を発症してしまったのが、留年の直接的な原因である。
・生活サイクルの崩壊=昼夜逆転
・講義をサボる
毎朝適切な時間に起きて家を出て、学校なり会社なりに出かけるという何でもない事が、ある種の人間にはちょっとした難題になりうるのだ。
自分は院生時代、入眠する前によく考えていた。
このまま朝目が覚めず、寝続けたら大学をサボることになる。恐らく次の日も日中は起きれず、サボり続けることになるだろう。きっとしばらくすると大学への恐怖感が産まれ、ついには二度と社会復帰できなくなるのではないか?
実は眠りは恐ろしい。
自分の好きなハチワンダイバーという将棋漫画に、日常と非日常、常識と不条理の世界を隔てる壁は極めて脆弱で容易に砕けてしまう、という台詞がある。そう、「薄氷一枚」である。
自分の足元の氷は、大学3年のあの日に砕けたのだ。ただそもそも自業自得な点を考えると、むしろ自分で氷を踏み抜いた上で飛び込んだといったほうが良いのかもしれないが。
留年で一年を棒に振ったことはもとより、半引きこもり生活だった2年弱の間にだいぶ脳が錆びついてしまったと思われるのが、返す返す悔やまれる。
5年かかって学部を卒業した際は、これからはまっとうに生きよう、規則正しい生活を維持しよう、と思っていた。まあ、結局大学院で就留してしまうわけだが・・・
就活9
一学年下にまじって就活を再開したわけだが、その後はあまり書くネタが無い。
というか、ネット上にいくらでも転がっている平凡な就活体験記の一つでしかない。
前年に自分はある程度就活らしき事をしていた訳だが、全く内定に繋がらなかった。いくつかの理由は、改めて就活を続ける中で段々分かってきた。
①一次募集を受けなかった(書くまでもないか・・・)
②学歴に見合わないほどマイナーな企業を受けている
③同業他社を受けていない
④学生時代に力を入れたことは、という質問に答えられない
⑤他社の選考が進んでいない or 他社の内定を持っていない
⑥志望動機がシンプルすぎる(ex. ものづくりに携わりたい等)
⑦最低限の身だしなみが出来ていない
⑧はきはき喋らない
数字は原因として重要と思われる順である。
実際基本的な事ばかりなので、対策できる(あるいはある程度の演技でカバーすることになる)ことばかりである。もっとも、どうやらこれらが足りなかったばかりに一年を棒に振っているわけで、全く偉そうなことは言えない立場なのだが・・・
一緒に就活している友人でもいれば、就留する前にこの辺の勘所というか雰囲気を何となくつかめた可能性はある。孤独な大学生活を送っていると、就活時にこんなリスクがある、ということかもしれない。
就活8
M2の冬、一学年下の合同説明会に改めて参加した。たしかビッグサイトだったはずだが、これが人生初の普通の合説(豪雪)体験であった。
実は、M2の5月頃に学内説明会に行ったとき、ある企業の人事担当者が以下のようなことを言っていた。
・この時期まで活動しているみなさんの就活内容は、もしかしたらあまり納得いくものではないのかもしれません。
・ですが残念ながら、弊社含め主要企業の新卒採用の大部分は既に一段落していて、これから一部で始まる二次募集はかなり狭き門です。
・もし内定のないまま卒業して次年度弊社に応募しても、採用の見込みはかなり厳しくなります。(言外に、既卒は取らないとのことらしい)
・ですので、留年して再度就活されるというのも一つの選択肢かもしれません。
・皆さんのような優秀な人材を企業が活用できない事態は大変惜しく、新卒一括採用という現時点でデファクトスタンダードな枠組みに対しては賛否両論ありますが云々・・・
まあ有体に言うと就留のすすめ的な内容であった(勿論、明言はしていないものの)。
企業がその種の仄めかしをしていいのか?とかなり首をかしげたが・・・
そういうルールのゲームなら仕方ない、とも言えるし、そんなおかしなルールがまかり通るのは許せん、現状を変えるべきだ、という考えもあるだろう。
この、就活において「新卒チケットが強すぎて既卒が不利すぎる問題」だが、2018年時点で多少は緩和されているのだろうか?
就留のメリットは、まあ大してないのだが、その最大のメリットと言えるものは「とりあえずもう一年、既卒にはならずに済む」という点に尽きるのだろう。
この人事担当者の言葉が自分が就留を決めた決め手、という訳では全くないが、あとから思い返すといろいろ考えさせる話だったと感じている。当時の○クルート社謹製就活システムに対する人事の本音の一部みたいなものとか。
学部留年9
5回生の冬学期の半ば。卒論は佳境を迎えようとしていた。
正直大した内容ではなく、過去に誰もやっていないだけで初歩的なテーマだったが、データは集まっていたので一応卒論としての格好はついたように思う。まあ指導教官の実験計画が上手く、物事が想定通り進んだということだろう。
月~金の日中は授業があるため、実験できるのは平日の夜か土日限定となる。今思えばよく体力が続いたものである。結局5回生の間、旅行の類は一度も行かなかった。
今風にいうと、なんとブラックな学部生活、という事になるのだろうか。
まあこのケースでは完全に自業自得なのだが。
さて問題は冬学期の単位である。全コマ履修のうえ、基本的に一つも落とせないというプレッシャーの中だったが・・・結論から言うと、履修した科目の単位は全て取得できていた。若干ギリギリではあるが、卒業単位を満たしたのである。
成績表を見ながら、4回生の頃からは想像もできないなぁ何とか卒業できそうだなぁと感慨にふけっていると、クラスの(下級生の)友人から連絡が入った。
自分の単位取得を祝って、飲み会を開催するとのことだった。
自分が主役の飲み会、というのは慣れないし苦手なのだが、その日の酒は不思議とうまかった。
酔っぱらってしょうもない事を喋っていた気もする。
「普通に大学に通って、普通に授業に出て普通に卒業するという事が、自分にとっては意外と高いハードルだったよ」
「でも世間の言う普通って案外そんなもんだよ。一年よく頑張ったよ」
「たまたま留年してこの面子でつるんでるんだから偶然って面白いよな?でももう留年するなよ!笑」
その場で、卒業祝いとして皆からいくつか贈り物をもらった。10年以上経った今でも、自分の机に飾ってある。
さて、この辺りで学部留年記としては一旦筆をおこうと思う。
学部留年8
5回生の夏学期が終わるころには、そのグループで集まって実習の課題をやったり、昼休みに根津でランチをしたり、下宿に集まって飲んだりするようになった。まるで普通の大学生生活である。
そのメンバー間では、卒論の実験と共に履修しまくった授業に追われている自分の去就というのは一つのイシューであったようで、よく心配されていた。
実際単位不足は深刻で、必修の多い夏学期にはそれほど単位を積み重ねることが出来なかったため、冬学期も引き続きほぼ全コマ選択科目履修という背水の陣をしく羽目になっていたのだ。
グループのメンバーの一人は、自分が単位のためだけに履修していた他学科の夕方の授業(普通こんなのは、よほど興味が無いと取らない)を、一人で授業を受けるのは退屈だろう、という理由で自分につきあって一緒に受講していた。
よっぽど暇なのか?と思わないでもないが、ただ一方で無性に有り難かったことを覚えている。
一つ付け加えておくと、そのグループうちの何人かは駒場で既に留年していた。
類は友を呼ぶということだろうか。
5回生の秋ごろ、院試を受けた。学部卒で就活する余裕は物理的に無かったので、修士に進む以外の選択肢は事実上なかった。
そもそも単位がそろって学部を卒業できるのか?という疑問符付きではあったが、院試には無事合格した。
この院試の試験勉強をした記憶があまり残っていない。過去問を農学部の何処かの棟で購入したような気もするが・・・この時期は忙しすぎたのだろう。今やほとんど記憶喪失である。