ジパングあるいはシパンゴ

Cipango - Wikipedia, la enciclopedia libre

 

いわゆる黄金の島ジパングーZipanguとしておなじみの名前だが、欧州ではCipangoあるいはCipanguがメインであり、イタリア語でややZipanguの用例が見られる、という程度らしい。

シパンゴ・シパングだと違和感がちょっとすごい(笑)

帰刃(レスレクシオン)とかいうスペイン語

ブリーチの破面(アランカル)編にはオサレなスペイン語が沢山散りばめられていました。

例えばアランカルは恐らく"arrancar"「剥がす」ですね。

帰刃(レスレクシオン)は、「復活・再生」を意味する"resurreción"ですが、この単語の語頭のrとそれに続くrrは、いわゆる「巻き舌のr」なわけで...

 

無理やりカタカナ表記すると「レスレクシオン」

強勢を明示するために長音符を使うと「レスレクシオーン」

 

...という、日本語話者にとってはかなり発音が難しい語なのでした。

 ※しかもスペイン式の発音だと「シ」は舌を前歯で挟む"θ"になる

 

巻き舌のrを複数含む単語というのはスペイン語にはそれほど存在しないと思われ、スペイン語話者にとってはこの語の響きはクールなのかな?ダサいのかな?というのが若干気になります。

 

因みに十刃(エスパーダ)は"espada"、普通「剣」を表す女性名詞ですが、スペイン語版では複数形の表記が"Los Espadas"となっています。恐らくですが、"espada"を男性名詞として処理しているのではないかと。

※男性名詞の"espada"は「マタドール」の意味

これはちょっと不思議で、第1十刃が「プリメーラエスパーダ」"primera espada"と完全に女性名詞扱いになっているので、どうも用語の性が一致しないんですよね。

パセリの虐殺

シボレス (文化) - Wikipedia

シボレス (英語: Shibboleth) は、ある社会集団構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語」である。

上記Wikiで紹介されているシボレスの一例「パセリの虐殺」(パセリ大虐殺とも)については、日本語Wikiに該当ページがなく、その詳細について日本ではあまり知られていないと思われる。

 

舞台となったのはカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島。この北海道より少し小さな(それでも十分大きいが)島の東側三分の二がドミニカ共和国、西側三分の一がハイチ領となっている。(注:以後「ドミニカ」は「ドミニカ共和国」を指す。ドミニカ国はこの記事には関係ありません。念のため。)

島の東側・ドミニカは旧スペイン植民地でスペイン語を話し、ムラート(ヨーロッパ系・アフリカ系・アメリカ先住民の混血)が多数を占める。島の西側・ハイチは旧フランス植民地でフランス語を話し、アフリカ系が9割を占める黒人国家。 

この、スペイン語とフランス語という二つの言語は島の呼び名にも影響しており、島の名前がやたらと何通りもある。イスパニョーラ(Hispaniola)島、エスパニョーラ(La Española)島、サンドミンゴ(San Domingo)島、サントドミンゴ島(Santo Domingo)、ハイチorアイチ(Haiti)島等である。

15世紀末にコロンブスに発見されて以降、このイスパニョーラ島はスペイン植民地となった(もちろんそれ以前は先住民が治めていたわけだが)。しかしスペイン本国の国力の衰え・英海賊フランシス・ドレークの略奪・天災etcの要因が重なり、島の西側からからのフランス植民者の侵入を防げなくなっていく。1697年、レイスウェイク条約により島の西側は正式にフランス領(後のハイチ)となる。ちなみにこの条約はヨーロッパを主戦場とした大同盟戦争終結に関わる多国間条約だが、カリブ海の島の領土調停もついでに行っていたわけだ。

ちなみにハイチは1804年までサン・ドマングと呼ばれていたが、ここ出身のムラートで、フランス貴族の父と黒人奴隷の母の間に生まれた男が18世紀にフランス本国で軍人として出世し、ナポレオンに仕えて大活躍した。トマ・アレクサンドル・デュマ将軍であり、その息子こそが「三銃士」の作者アレクサンドル・デュマ・ペールである。閑話休題

 

現場となったのは島の東、ドミニカ側である。時は1937年10月。当時のドミニカはラファエル・トルヒージョ大統領の独裁政権

一方ハイチは1804年にフランスから独立した後に混乱を経て、1915~1934の間は米国に占領されていた。米軍が撤退した後のハイチは相変わらず政治的・経済的混乱にみまわれていくがのだが、1937年当時は民政移行直後であり、ステニオ・ヴィンセント大統領政権下。因みに彼はムラートであったが、彼以降のハイチ大統領はもっぱらアフリカ系である。

 

以下、下記英語版Wikiより引用する。

Parsley massacre - Wikipedia

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摘要

1937年にドミニカで起きた「パセリの虐殺」では多数のハイチ人が殺害された。

虐殺者たちはハイチ人を見分けるため、「パセリ(スペイン語で"perejil")」という言葉を相手に言わせ、うまく発音できなかった者はハイチ人と見なされて殺されたという。

 

出来事

1937年10月2日、ドミニカ共和国のトルヒージョ大統領はハイチ国境に近いダハボンでダンスパーティーを主催、その中で以下のスピーチを行った。

「私は数カ月にわたりハイチ国境付近の地域を視察したが、今やドミニカ人は、国内のハイチ人によって抑圧されている。家畜、果物、食料が盗まれ、平和で生産的な生活が妨害されている。

私がこれを正そう。

我々は既に、この状況への対応を開始した。バニカ(これも国境近くのドミニカの町)で300人のハイチ人が死んだ。今後もこの『対応』を継続する」

トルヒージョの「明確な」指示に従い、主にドミニカ軍によって20,000人近いハイチ人が国境付近で殺されたが、正確な人数はいまだにはっきりとしていない。目撃者/生存者は少なく、また死体の多くが海でサメの餌となり、あるいは酸性の土中で速やかに分解され、虐殺の証拠が残りづらかったのだ。

ドミニカ国内のハイチ人殺害を命じられた数百人規模のドミニカ軍が10月2日から8日にかけて国境地帯に展開し、犠牲者はライフル、マチェテ(山刀)、スコップ、ナイフ、銃剣等で殺害された。ハイチ人の子供を投げあげ、空中で銃剣で串刺しにし、母親の死体の上に投げ捨てるといった行為が報告されている。

のちに在ハイチ米公使館の報告したところでは、このような非人道的な命令を実行するため、ドミニカ兵は前後不覚になるまで泥酔していたという。

 

経緯

当時の状況としては、島の東側5/8の面積を占めるドミニカの人口は1000万人程。対してハイチには同程度の人口が島の西側3/8に住んでおり、その人口密度は500人/平方マイル(約193人/km^2)に達していた。この人口が圧力となり、多くのハイチ人が耕作可能地を求めてドミニカ側に越境することになった。

国境地域(ドミニカ側)のハイチ人定住者の増加は、トルヒージョにとって頭痛の種だった。彼らの存在は国境を東方に再画定するハイチの動きにつながりかねなねず、また実際にハイチ人の越境が増えたことにより、ハイチ側からドミニカ側への各種商品の密輸入の問題も顕在化していく事になる。

ドミニカの反ハイチ感情の高揚は過去数十年の背景をもった複雑な経緯を持っていた。これは虐殺事件が起きてから80年が過ぎた現在も続いており、その背景にはハイチ人を「黒人」とみなすドミニカ側の伝統的な対ハイチ観が存在する。(一方でドミニカ人が自らを「白人」と規定しているかというと、必ずしもそうではない)

 

事件への反響

米国は、虐殺に使用された弾丸はドミニカ軍採用のクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルから発射されたものであり、ドミニカ兵のみがアクセス可能な武器と発表した。

事件後、トルヒージョは国境地帯の開発を進め、都市部との交通を改善させた。国境地帯にビル・学校・病院を建て、ハイウェイさえ通した。そして1937年以降、ハイチ人のドミニカへの入国制限が始まり、厳しい取り締まりが行われた。南部国境地帯では、ドミニカによるハイチ人の追放と殺害が継続し、こうした「ハイチ難民」の多くがマラリアとインフルエンザで命を落とした。

ハイチのヴィンセント大統領はフランクリン・ルーズベルト米大統領とともにドミニカに75万米ドルの賠償金を請求、内52.5万米ドル(2017年の価値に換算して9百万米ドル)が支払われた。しかしハイチ官僚の腐敗のため、死者一人につき30ドル、生存者は一人あたり2セントしか受け取れなかった。

ドミニカとトルヒージョに対する国際的な非難が高まり、トルヒージョに追放された亡命ドミニカ人等は彼を指して「故郷に対する裏切り者」と称した。

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引用終わり。非常にえぐい話であり、本件は両国の国民感情に深刻な影を落としたことは想像するに難くない。

 

スペイン語"perejil"「パセリ」の発音は[perexil]であり、カタカナ発音で「ペレヒル」と言ってもスペイン語話者に難なく通じると思われる(rの発音ができていればだが)。日本人からみてそんなに難しい単語ではなさそうな"perejil"だが、フランス語話者にとってはかなり言いづらい、と言われている。

まずスペイン語の[r]音(歯茎はじき音)は、英語の[r]とは微妙に違うものの日本人の耳にはほぼ同じように聞こえる。この音はフランス語にはない。代わりアルファベット"r"に対応するのが[ʁ](有声口蓋摩擦音)であり、喉を鳴らすようなこの音は日本人の耳にはしばしば「ハ行」音として聞こえる。つまりスペイン語の"r"とはかなり似ていない音ということになろう。

次にスペイン語の[x](j, gi, geに対応)だが、これは無声口蓋摩擦音。日本語にはない溜息のような響きを持つ音だが、日本人にとって特に発音が難しいという音でもない。この音もフランス語には無く、下記Wikiによれば、「無声軟口蓋摩擦音/x/はフランス語本来の音素ではなく、jotaやkhamsin、Huang Heといった借用語(主にスペイン語アラビア語、中国語)で現れることがある。うまく発音できない人はrの音[ʀ]、[ʁ]や[k]に置き換え、つづりが"h"の場合は発音しない。」

フランス語の音韻 - Wikipedia

つまり[r]の後に滑らかに[x]を繋げる"perejil"=[perexil]を上手く発音できない者がフランス語話者に多い、ということになるらしい。

テメロッソ・エル・ドラゴ

Fateのゲーム中に登場するフランシス・ドレイクの台詞「テメロッソエルドラゴ」

恐らく綴りは"Temeroso El Drago"になると思われるが、これについて海外のファンたちが議論している(リンク先参照)

www.reddit.com

・"El Drago"なのか"El Draque"なのか?日本語原文に従うなら"El Drago"だが…

 注)現代スペイン語"drago"は竜血樹リュウケツジュ)の意。一方の"Draque"は"Drake"のスペイン風の呼び名とされている。ドレークはスペイン人に"El Draque"と呼ばれていたらしい。

・「テメロッソ」は"temeroso"だと思うけど、"temerario"の方がいいのでは?両方とも一応「恐ろしい」の意味だが、前者だと「臆病者」のニュアンスが、後者なら「恐れられる・無謀な」のニュアンス。

・(↑に対するレス)"temeroso"でも「恐れられる」を表すし問題ない。ソースは西語話者の俺。

・文脈的には"valiente"「勇敢な・無謀な」の方が適当かも?

・彼女(ドレイクはゲーム中では女性です。念のため)は英国人だったんだ。スペイン語が怪しくても当たり前。

 

引用終わり。

ググってみたが、ドレイク="El Drago"「エル・ドラゴ」の記述はなかなか見つからない。また"El Drago"=「悪魔or竜」についても同様。(Fate関連ページしか見つからない。Fateが何をソースにしたのか気になる所である。)

 

Talk:Francis Drake/Archive 1 - Wikipedia

英語版WikiのドレイクのページでWikipedianが議論している所によると、

・"El Draque"は単なる"Drake"のスペイン風翻訳であり、人名以上の意味は無いはずだ。(→El Draqueに竜の意味は無い)

・16世紀に"El Draque"が何を意味していたのか、専門家の知識が必要だね。

 

ちなみに英語の普通名詞"drake"は「竜」を意味し、ラテン語"draco"「竜」を起源に持つ。

またスペイン語で「竜」は"dragón"。これはラテン語"draco"の奪格"dracone"由来である。どうやら、英語"dragon"もこのラテン語"dracone"から古フランス語経由で生じたようだ。

 

フランシス・ドレーク - Wikipedia

日本語版Wikiには以下のような記述がある。

「ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から」

 

さて、実際の所ドレークはスペイン人から"draco"「竜」と呼ばれていたのだろうか?

彼の名前をラテン語形にすると"Franciscus Draco"になるというのは、日本語版Wikiには出典が無いが、実際に例を見つけられる。16世紀の著述家・彫刻師で現在のベルギーに生まれたTheodor de Bryテオドール・ド・ブライの(ラテン語の)著作"Collectiones peregrinatiorum in Indiam orientalem et Indiam occidentalem (1590–1633)"ではドレークの北米上陸を描いており、そこでの名前の表記は"Franciscus Draco"である。

bancroft.berkeley.edu

もっとも、Wikiラテン語版によれば"Drakus", "Dracus" "Draken"等々複数のラテン語表記バリエーションがあるようではあるが。

Franciscus Drakus - Vicipaedia

 

また、スペイン語Wikiには、「スペインでは"Francisco Draque"の名で知られる」以外の「スペイン語の呼び名」は見当たらない。さらに言えば定冠詞付きの"El Draque"の件も、"draco"と呼ばれていたとも書かれていない

Francis Drake - Wikipedia, la enciclopedia libre

 

最後に、改めて英語版Wikiを見てみると、

Francis Drake - Wikipedia

「スペイン人には海賊"El Draque"として知られた」とある。その記述の出典は・・・なんと、先ほど紹介したテオドールの著作にリンクが張られている!

リンク先はラテン語で記述された資料であり、ドレークがスペイン人から何と呼ばれていたかには実は関係ない。

ここに至って、"Drake"="El Draque"すら怪しくなってしまった。ソース付きで確認できるのは、スペイン語Wikiにある"Francisco Draque"のみである。

books.google.es

 

さて、そもそも大英帝国の英雄ドレイク船長が宿敵スペインから畏怖を込めて「竜」とか何らかの渾名で呼ばれていたというのは、いかにも出来過ぎな感じがしなくもないが・・・島津家の「鬼石曼子」みたいに。

 

<追記>

Armas antárticas - Juan de Miramontes Zuázola - Google ブックス

"El Draque"のソースを発見した!Armas antárticas, Juan de Miramontes Zuázola, 1609。16~17世紀のスペン軍人が書いた詩(「南極艦隊」とでも訳すのかな)に注釈をつけたものであり、2006年発行。

註釈よれば、ドレイクはカスティーリャ語スペイン語)テキストでは普通"El Draque"と呼ばれ、時に"El Dragón"「エル・ドラゴン/竜」とも。

 

上記をふまえて、スペインを脅かした海賊ドレイクの異名をスペイン語で表現するとなると、例えば"El Dragón Temeroso"「エル・ドラゴン・テメローソ」が無難な所かな?

でもこれじゃ語感にかっこ良さが無いなw

 

また別のソースを発見したので追記。

A History of the British Presence in Chile: From Bloody Mary to Charles Darwin and the Decline of British Influence, William Edmundson, 2009

epdf.tips

19世紀の記録では、チリやペルーではいう事を聞かない子供に"Aqui viene Draake" = "Here comes Drake!"「(悪い子の所には)ドレークが来るよ!」と言っておどかしたという。(Samuel Haigh, 1829)

これはローマ人にとってのハンニバルばりの恐れられっぷりであり、海賊/武人としてのドレークの面目躍如なのでは。

ここでは、彼のスペイン語の呼び名として"El Draque", "El draco", "Francisco Draguez", "Draake"等が確認できる。...ようやく"El draco"の記述に辿り着いたが、これはラテン語から中世スペイン語への借用語かな?

 

また、ここで筆者エドムンドソンはこう記している。

el draque in old Spanish means "the dragon"

→"el draque"は中世スペイン語では「竜」を意味する。

これが、私がウェブ上で唯一発見できた「ドレイクが『"el draque"=竜』と呼ばれていた」というソース(出版物)である。

 

また、ラテン語"draco"「竜」についてだが、Wiktionaryによれば教会ラテン語では「悪魔」も意味するらしい。

draco - Wiktionary

 

エドムンドソンとWiktionaryを共に信じるならば、以下のようになる。

・ドレイクはスペイン人に"el Draque"あるいは"el draco"と呼ばれることがあった。

・"el Draque"も"el draco"もスペイン語文脈の中では「竜」という意味らしい。(後者はラテン語からの借用語になると思われるが、その意味するところは恐らく「竜」なのだろう)

・"draco"については「悪魔」の意味を含むことがある。(Draqueについては不明)

→「エル・テメロッソ・ドラコ」or「エル・ドラコ・テメロッソ」が正しいスペイン語の形か?

...まあ、ゲーム中のドレイクの性別は女性なので、"La draco temerosa"「ラ・ドラコ・テメロッサ」となってもいいような...あるいは「雌竜」or「女悪魔(=Diabla)」を意味する"draca"なる形をでっちあげるか?

※偶然ですが現代英語"drake"の語源となる古英語は"draca"だそうです。

draca - Wiktionary

カカフエゴの意味 (&スピットファイアの由来)

英国海賊フランシス・ドレークが南米の太平洋岸で拿捕した、財宝を満載したスペイン船「カカフエゴ号」。

スペイン語"Cacafuego"って炎のウンコとでもいうような意味で、スペイン人はなんちゅう名前を船に付けてるんだ?

 

カカフエゴというのは愛称で、正式名称は長ったらしく「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン(Nuestra Señora de la Concepción)」。無原罪の聖母号、とでも訳すべきかな?

 

Nuestra Señora de la Concepción - Wikipedia

上記リンク先の英語版Wikiによれば、以下の通り

・カカフエゴは直訳すると、炎のウンコとか新鮮なウンコとか。

・イタリア語フィレンツェ方言"Cacafuoco"「拳銃」と同根か。

 (炎を排出→火を噴く武器→火砲、 的な連想か)

・イタリア語"Cacafuoco"→英語"Spitfire"「大砲・怒りっぽい人」

 スピットファイアは現代になって英戦闘機の名前に採用され、一躍有名に。

・一方で"Spitfire"がイタリア語"Cacafuoco"由来とするのは民間語源だとも。(結局どうなの?)

 

英語版Wikiにはこんな記事もあった。

HMS Spitfire - Wikipedia

イギリス海軍には"Spitfire"の名を冠する船が18世紀から20世紀にかけて複数存在した。この"Spitfire"という名前はドレークが拿捕したスペインのガレオン船"Cacafuego"の名を婉曲的に英訳したものである。

 

一方、戦闘機の方のスピットファイアの由来はヴィッカース・アームストロング社の役員ロバート・マクレーンRobert McLeanが娘アニー・ペンローズAnnie Penroseにつけていたあだ名"a little spiftire"「怒りん坊」だとも。

Supermarine Spitfire - Wikipedia

父娘で姓が違うのはペンローズが結婚後の姓だから、ということらしい。

ちなみにアニーは1911年7月3日生まれで、2011年10月2日に100歳で大往生している。図らずもニックネームが戦史・世界史に刻まれ、ついでに怒りっぽかったという性格についても語り継がれることになった彼女の生涯については、以下リンク先に詳しい。

www.telegraph.co.uk

彼女の100歳の誕生日には、横断幕を曳航した飛行機が家の上空を記念飛行した。横断幕に書かれていたメッセージは以下の通り。

"Happy 100th Birthday Spitfire Annie"

「100歳おめでとう、スピットファイア・アニー」

 

Anno Dominiの意味

西暦で使われる表記ADはラテン語"annō Dominī"の頭文字である。

これを日本語に直訳するとどうなるのか?日本語ウェブ上では複数説が並存しているようなので列挙してみる。

 

西暦 - Wikipedia

①日本語版Wikiによれば、"anno domini"は「主(イエス・キリスト)の年に」という意味である。つまり「主の年に」という説。

 

西暦紀元 - Wikipedia

②こちらのWiki「西暦紀元」によれば、「その年の主」の意味。

 

anno Domini - ウィクショナリー日本語版

③一方Wiktionary日本語版によれば、「主の年より」の意味。

 

日本語表現の幅を考慮しても、どうも①~③はそれぞれ別の内容を言っており、互いに矛盾しているように思われるのだが…。

 

元のラテン語については②のリンク先の記載が詳しいようなので以下転載する。

"西暦紀元を意味する中世ラテン語anno Domini」は「その年の主」を意味するのだが、多くの場合、元々の語源の句である「anno Domini nostri Jesu Christi」からそのまま意味を抜き出して「その年の主」の代わりに「その年の救世主イエス・キリスト」と訳される。" (引用終わり)

 

ラテン語"Domini nostri Jesu Christi"は「われらのキリスト・主の」と訳されるのが妥当なところであり、"Domini"だけなら「主の」であろう。("Domini"は"Dominus"「主」の属格)

ということは、この時点で②の「その年の主」という訳はちょっとおかしいのでは?という格好になる。

 

次に①と③の違いについてだが、これは"anno"をどう訳すかという点に集約されるだろう。"anno"は"annus"「年」の奪格。

ラテン語の奪格は和訳するときに中々ややこしい格であるらしく、以下の意味プラスアルファを含む。

・分離の奪格:~から

・手段の奪格:~で、~を用いて

・時の奪格:~に

(※他にも用法があり、「奪う」という語感からはだいぶ離れた意味を含んでいる)

つまり、①「主の年に」は"annō"を「時の奪格」として、③「主の年より」は「分離の奪格」として解釈しているようだ。

③説の場合、分離の奪格に対応する何らかの動詞が省略されているというイメージなのかも?

 

Anno Domini - Wikipedia

ちなみに英語版Wikiでは"anno Domini"を"in the year of the Lord"と訳しており、①説「主の年に」に該当するようだ。ということは①説が適正なのかな?