パセリの虐殺

シボレス (文化) - Wikipedia

シボレス (英語: Shibboleth) は、ある社会集団構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語」である。

上記Wikiで紹介されているシボレスの一例「パセリの虐殺」(パセリ大虐殺とも)については、日本語Wikiに該当ページがなく、その詳細について日本ではあまり知られていないと思われる。

 

舞台となったのはカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島。この北海道より少し小さな(それでも十分大きいが)島の東側三分の二がドミニカ共和国、西側三分の一がハイチ領となっている。(注:以後「ドミニカ」は「ドミニカ共和国」を指す。ドミニカ国はこの記事には関係ありません。念のため。)

島の東側・ドミニカは旧スペイン植民地でスペイン語を話し、ムラート(ヨーロッパ系・アフリカ系・アメリカ先住民の混血)が多数を占める。島の西側・ハイチは旧フランス植民地でフランス語を話し、アフリカ系が9割を占める黒人国家。 

この、スペイン語とフランス語という二つの言語は島の呼び名にも影響しており、島の名前がやたらと何通りもある。イスパニョーラ(Hispaniola)島、エスパニョーラ(La Española)島、サンドミンゴ(San Domingo)島、サントドミンゴ島(Santo Domingo)、ハイチorアイチ(Haiti)島等である。

15世紀末にコロンブスに発見されて以降、このイスパニョーラ島はスペイン植民地となった(もちろんそれ以前は先住民が治めていたわけだが)。しかしスペイン本国の国力の衰え・英海賊フランシス・ドレークの略奪・天災etcの要因が重なり、島の西側からからのフランス植民者の侵入を防げなくなっていく。1697年、レイスウェイク条約により島の西側は正式にフランス領(後のハイチ)となる。ちなみにこの条約はヨーロッパを主戦場とした大同盟戦争終結に関わる多国間条約だが、カリブ海の島の領土調停もついでに行っていたわけだ。

ちなみにハイチは1804年までサン・ドマングと呼ばれていたが、ここ出身のムラートで、フランス貴族の父と黒人奴隷の母の間に生まれた男が18世紀にフランス本国で軍人として出世し、ナポレオンに仕えて大活躍した。トマ・アレクサンドル・デュマ将軍であり、その息子こそが「三銃士」の作者アレクサンドル・デュマ・ペールである。閑話休題

 

現場となったのは島の東、ドミニカ側である。時は1937年10月。当時のドミニカはラファエル・トルヒージョ大統領の独裁政権

一方ハイチは1804年にフランスから独立した後に混乱を経て、1915~1934の間は米国に占領されていた。米軍が撤退した後のハイチは相変わらず政治的・経済的混乱にみまわれていくがのだが、1937年当時は民政移行直後であり、ステニオ・ヴィンセント大統領政権下。因みに彼はムラートであったが、彼以降のハイチ大統領はもっぱらアフリカ系である。

 

以下、下記英語版Wikiより引用する。

Parsley massacre - Wikipedia

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摘要

1937年にドミニカで起きた「パセリの虐殺」では多数のハイチ人が殺害された。

虐殺者たちはハイチ人を見分けるため、「パセリ(スペイン語で"perejil")」という言葉を相手に言わせ、うまく発音できなかった者はハイチ人と見なされて殺されたという。

 

出来事

1937年10月2日、ドミニカ共和国のトルヒージョ大統領はハイチ国境に近いダハボンでダンスパーティーを主催、その中で以下のスピーチを行った。

「私は数カ月にわたりハイチ国境付近の地域を視察したが、今やドミニカ人は、国内のハイチ人によって抑圧されている。家畜、果物、食料が盗まれ、平和で生産的な生活が妨害されている。

私がこれを正そう。

我々は既に、この状況への対応を開始した。バニカ(これも国境近くのドミニカの町)で300人のハイチ人が死んだ。今後もこの『対応』を継続する」

トルヒージョの「明確な」指示に従い、主にドミニカ軍によって20,000人近いハイチ人が国境付近で殺されたが、正確な人数はいまだにはっきりとしていない。目撃者/生存者は少なく、また死体の多くが海でサメの餌となり、あるいは酸性の土中で速やかに分解され、虐殺の証拠が残りづらかったのだ。

ドミニカ国内のハイチ人殺害を命じられた数百人規模のドミニカ軍が10月2日から8日にかけて国境地帯に展開し、犠牲者はライフル、マチェテ(山刀)、スコップ、ナイフ、銃剣等で殺害された。ハイチ人の子供を投げあげ、空中で銃剣で串刺しにし、母親の死体の上に投げ捨てるといった行為が報告されている。

のちに在ハイチ米公使館の報告したところでは、このような非人道的な命令を実行するため、ドミニカ兵は前後不覚になるまで泥酔していたという。

 

経緯

当時の状況としては、島の東側5/8の面積を占めるドミニカの人口は1000万人程。対してハイチには同程度の人口が島の西側3/8に住んでおり、その人口密度は500人/平方マイル(約193人/km^2)に達していた。この人口が圧力となり、多くのハイチ人が耕作可能地を求めてドミニカ側に越境することになった。

国境地域(ドミニカ側)のハイチ人定住者の増加は、トルヒージョにとって頭痛の種だった。彼らの存在は国境を東方に再画定するハイチの動きにつながりかねなねず、また実際にハイチ人の越境が増えたことにより、ハイチ側からドミニカ側への各種商品の密輸入の問題も顕在化していく事になる。

ドミニカの反ハイチ感情の高揚は過去数十年の背景をもった複雑な経緯を持っていた。これは虐殺事件が起きてから80年が過ぎた現在も続いており、その背景にはハイチ人を「黒人」とみなすドミニカ側の伝統的な対ハイチ観が存在する。(一方でドミニカ人が自らを「白人」と規定しているかというと、必ずしもそうではない)

 

事件への反響

米国は、虐殺に使用された弾丸はドミニカ軍採用のクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルから発射されたものであり、ドミニカ兵のみがアクセス可能な武器と発表した。

事件後、トルヒージョは国境地帯の開発を進め、都市部との交通を改善させた。国境地帯にビル・学校・病院を建て、ハイウェイさえ通した。そして1937年以降、ハイチ人のドミニカへの入国制限が始まり、厳しい取り締まりが行われた。南部国境地帯では、ドミニカによるハイチ人の追放と殺害が継続し、こうした「ハイチ難民」の多くがマラリアとインフルエンザで命を落とした。

ハイチのヴィンセント大統領はフランクリン・ルーズベルト米大統領とともにドミニカに75万米ドルの賠償金を請求、内52.5万米ドル(2017年の価値に換算して9百万米ドル)が支払われた。しかしハイチ官僚の腐敗のため、死者一人につき30ドル、生存者は一人あたり2セントしか受け取れなかった。

ドミニカとトルヒージョに対する国際的な非難が高まり、トルヒージョに追放された亡命ドミニカ人等は彼を指して「故郷に対する裏切り者」と称した。

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引用終わり。非常にえぐい話であり、本件は両国の国民感情に深刻な影を落としたことは想像するに難くない。

 

スペイン語"perejil"「パセリ」の発音は[perexil]であり、カタカナ発音で「ペレヒル」と言ってもスペイン語話者に難なく通じると思われる(rの発音ができていればだが)。日本人からみてそんなに難しい単語ではなさそうな"perejil"だが、フランス語話者にとってはかなり言いづらい、と言われている。

まずスペイン語の[r]音(歯茎はじき音)は、英語の[r]とは微妙に違うものの日本人の耳にはほぼ同じように聞こえる。この音はフランス語にはない。代わりアルファベット"r"に対応するのが[ʁ](有声口蓋摩擦音)であり、喉を鳴らすようなこの音は日本人の耳にはしばしば「ハ行」音として聞こえる。つまりスペイン語の"r"とはかなり似ていない音ということになろう。

次にスペイン語の[x](j, gi, geに対応)だが、これは無声口蓋摩擦音。日本語にはない溜息のような響きを持つ音だが、日本人にとって特に発音が難しいという音でもない。この音もフランス語には無く、下記Wikiによれば、「無声軟口蓋摩擦音/x/はフランス語本来の音素ではなく、jotaやkhamsin、Huang Heといった借用語(主にスペイン語アラビア語、中国語)で現れることがある。うまく発音できない人はrの音[ʀ]、[ʁ]や[k]に置き換え、つづりが"h"の場合は発音しない。」

フランス語の音韻 - Wikipedia

つまり[r]の後に滑らかに[x]を繋げる"perejil"=[perexil]を上手く発音できない者がフランス語話者に多い、ということになるらしい。