ジェミー・ボタンについて

ティエラ・デル・フエゴにかつて住んでいたヤーガン族、その中で歴史上に名前を残したほぼ唯一の者といえそうなのがジェミー・ボタンである。Wikipedia日本語版には彼の独立記事はない。というわけで、Wikipedia英語版の記事を参照しながら彼の人生を下記する。

en.wikipedia.org

 

チャールズ・ダーウィンが乗り込んだビーグル号が英国を発ったのは1831年12月27日。

ダーウィンはこの船上で3人の「南米人」に出会った。パタゴニアのティエラ・デル・フエゴ諸島出身の先住民族である。

この3人のうちの1人、ヤーガン族の"ジェミー・ボタン"はダーウィンの印象に残ったようで、彼の「ビーグル号航海記」に何度か登場することになる。

この名前を聞けば、児童文学に親しんだ者はおや、と思うだろう。そう、彼の名前は「ジム・ボタンの冒険」(ミヒャエル・エンデ)の元ネタになったと言われている。

彼の本名"Orundellico"の「ヤーガン語での」発音だが、スペイン式に濁らない「オルンデリーコ」か、南米一般のジェイスモの発音で「オルンデジーコ」か、あるいはアルゼンチン訛り風に「オルンデシーコ」なのか...よく分からない。まさか英語風に「オランドリコ」ではないと思うが...と思ったら、どうやらローマ字読みして「オルンデリコ」が適当か?

※下記リンク先は、ビーグル号の船長、ロバート・フィッツロイによる1839年の著作"Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe"より、ヤーガン語と英語の対照表。「o'rundel'lico」の表記あり

Page 141 - Narrative of the surveying voyages ... appendix to vol. 2

 

ジェミーはフエゴ島出身であり、同島は現在チリとアルゼンチンによって領有されているが、島に国境線がひかれたのは1881年のことである。したがって、はたしてジェミーがチリ人だったのかアルゼンチン人だったのかは判然としない。(そもそもどちらにも属していないのかも)

ヤーガン族を含むフエゴ島民の当時の暮らしや文化について詳説は省くが、極寒のパタゴニアで服を着ず家も作らず、漁労や狩猟で暮らしていた。独自の言語を持っていたが、文字は持たなかった。(またググった限りでは、ヤーガン族がセルクナム族のような独自の神話体系を持っていたのかどうかはよくわからない。)

出アフリカ以降グレート・ジャーニーを続けた人類が、その果てでついに南極海に突き当たった旅の終わりの地がこのティエラ・デル・フエゴである。偉大な旅路のいわば最先頭にいた人々の子孫の生活は、驚くほど原始的な水準に留まっていた。...あるいはある種の退化がそこに認められるのかもしれない。

 

1830年フエゴ島。ビーグル号(1回目の航海)の船長、フィッツロイのボートを盗んだフエゴ島民のグループは、逆にヨーロッパ人達に捕らえられてしまう。その一団の中にジェミーがいたかどうかはよくわからないが、その後の経緯で「真珠貝のボタン」(mother of pearl bottun)と引き換えに、いわば人身売買の形でフィッツロイの手元に置かれたのが、およそ15歳のオルデンリコ、のちのジェミー・ボタンであった。

※パトリシオ・グスマンのドキュメンタリー映画「真珠のボタン(原題:El Boton de Nacal, 英題:The Pearl Button)」の邦題にはやや疑問が残る。ふつう、真珠貝の貝殻から削り出したボタンを指して「真珠のボタン」とは言わないのでは...と思ったらそういう用法もあるらしい。時に「真珠ボタン」とも。

 

ジェミーを含む4人のフエゴ島民はそのままビーグル号で英国へと連れられ(不幸にもうち一人は病死してしまうが)、そこでフィッツロイの庇護のもとロンドンで英語およびキリスト教教育を受ける。ジェミーの英国暮らしは1年余りに過ぎなかったが、それなりに英語を習得したらしい。さすが15歳の頭脳、というべきだろうか。

英国滞在中、3人のフエゴ島民のロンドンでの暮らしぶりはそれなりの頻度で新聞に取り上げられていたようで、一種のブームだったと思われる。結果、ジェミーたちは当時の英国王ウィリアム4世の謁見を賜るという栄誉まで得たのだった。

そして舞台は冒頭に戻り、1831年12月27日、ビーグル号は再び船長フィッツロイに率いられ、英国プリマス港から出港した。航海の主目的は南米沿岸の精密な測量であり、そこに同乗する形で3人のフエゴ島民は帰郷の途に就くことになった。

当時最先端の文明世界で暮らした後で、世界で最も後進的とすら思われる文化圏に舞い戻るー3人がこの点についてどう考えていたのかは定かではない。

ただ少なくともジェミーは、英国で着ていた服を脱ぎ捨て、フエゴ島の暮らしに速やかに順応したようである。

ジェミーらをフエゴ島で下船させた数か月後、ビーグル号は再び同島に立ち寄り、そこでダーウィンらは全裸になり髪も伸び放題になったジェミーに再会している。その際(おそらくフィッツロイから)「英国に戻らないか?」と打診されるも、ジェミーはこの誘いを断って同地に留まったのだった。

ダーウィンがジェミーと再会することはもう無かったが、彼らフエゴ島民との出会いがダーウィンのその後の進化にまつわる研究・発想にある種の影響を与えていた可能性は大いに考えられるであろう。

 

en.wikipedia.org

上記のビーグル号の航海の後、1844年に英国で「パタゴニア宣教団」が組織され、フエゴ諸島原住民に対するのキリスト教の宣教が開始された。

主に文化の違いから、宣教活動は困難を極めたようである。極めて過酷な気象環境や原住民との対立により、宣教団は複数の犠牲者、すなわち殉教者を出していた。ただ極めてゆっくりとではあるが、先住民のキリスト教化が進んでいった。

そして1855年11月1日、宣教団はフエゴ島対岸のナバリノ島で英語を話す原住民ーすなわちジェミー・ボタンに遭遇した。

宣教活動の中でジェミーがなんらかの役割を果たしたのか、はWikipedia記事だけからはよく分からない。ジェミーとその家族に対してもある種の教化プログラムが為されたが、長続きはせず、最終的に先住民たちの多くは元の住処である野山や島々へ帰ってしまったようである。

そして1859年に事件が起こる。

宣教団はナバリノ島西岸のウライア海岸に小さな教会を建設し、そこで日曜のミサを執り行ったが、その際に先住民の集団に襲撃され、その場にいた西洋人9人のうち8人が撲殺された。「ウライアの虐殺」である。

襲撃の背景は詳らかでないが、宣教(英語教育)の過程で西洋人と先住民間で感情的な諍いが起きていたと言われる。

一説によれば、この虐殺を主導したのはジェミーとその家族たちであった。

これほどの死者を出した事件であり、当然ながら英国はある種の捜査を実施した。1860年にジェミーがフォークランド諸島を訪れ、「容疑者」として審問を受けた際には、虐殺への関与を否定している。

犯人の処罰や先住民への報復を求める声は大きかったが、結局英国政府は誰一人罰することはしなかった。

ジェミーが亡くなったのは、1864のことである。

フエゴ島民は徐々に教化され、また一方で西洋人の持ち込んだ伝染病が猛威を振るい、急速に人口を減らしていった。2021年1月現在、ヤーガン語のネイティブスピーカーはたった一人、チリに住む92歳のクリスティーナ・カルデロン(通称"Abuela"=「お婆ちゃん」)のみである。

 

de.wikipedia.org

 

Julia Voss - Wikipedia

 

最後に、ミヒャエル・エンデの「ジム・ボタンの冒険」について。

ドイツのジャーナリスト、Julia Vossによれば、1960年に出版されたこの児童文学には、ナチスドイツの社会進化論(及びダーウィン進化論の誤った解釈)に対するアンチテーゼが込められているという。

ワイマール共和政のドイツに生まれ、ナチス政権下で育ったエンデは、作中にナチスのシンボルや象徴を多く散りばめたうえで、その差別主義的側面に対抗し、それらを反人種主義/多文化主義イメージへと転換させている。

 主人公ジムボタンの(名前だけでなくそのキャラクターそのものの)モデルは、我らがヤーガン族のジェミー・ボタンその人であった。Vossはこう言い添える。

「ジム・ボタンこそが進化論を救うのだ」と。

 

 

www.faz.net

 

http://cse.naro.affrc.go.jp/minaka/files/Savage.html