フリードリヒ2世の実験は嘘?

はじめに/中世の人体実験

いわゆる「神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世の実験」だが、日本語圏インターネットに流布している内容としては

・複数の赤ん坊(一説50人とも)が対象

・赤ん坊たちを世話する乳母たちは言葉をかけることを禁止され、さらに顔を布で隠した

・赤ん坊たちは言語とスキンシップ両方から隔絶された

・赤ん坊たちはみな早逝(一説一年とも)した。原因はスキンシップ(or愛情)欠如のため

 

疑問点

個人的には何点か疑問符がつく。

・中世(13世紀)、いくら皇帝の財力があっても、多数(50!?)の赤ん坊を同時に言語遮断する実験系を維持するのは物理的/マンパワー的に非現実的なのでは?

・当時の技術でスキンシップを完全に遮断するのは不可能だろう。なぜなら赤ん坊たちは乳母の母乳を直接飲んだはずで、これは一種重要なスキンシップに他ならないのでは?

 

日英西仏のWikipedia を参照してみた。※出典を補記した。

流布内容はほぼ日本語版Wikipediaに準拠しているようだ。

 

Wikipedia 日本語版

教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るため、乳母と看護師に授乳している赤子に向かって何も話さないように命じた実験がある。しかし、育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死に、フリードリヒの苦労は無駄になった。(トレモリエール, 2004

 

Wikipedia 英語版

In the language deprivation experiment young infants were raised without human interaction in an attempt to determine if there was a natural language that they might demonstrate once their voices matured.

「言語剥奪実験」。子供達は他者とのコミュニケーションを剥奪した状態で育てられた。成長した子供たちが内的な自然言語を発するか否かを調べるため。

 

But he laboured in vain, for the children could not live without clappings of the hands, and gestures, and gladness of countenance, and blandishments".Salimbene, 1942

しかし彼の実験は徒労に終わった。子供というものは、手を叩いたり、ジェスチャーしたり、スキンシップしたり、いたずらしたりしなければ生きていけないのだ。

 

Wikipedia スペイン語

Federico II ordenó aislar a un bebé de todo contacto verbal,

一人の赤ん坊を、あらゆる言語接触から隔離するよう命じた。

 

El experimento fracasó porque las ayas del niño le enseñaron a hablar a escondidas.

Salimbene, 1966

実験は失敗した。なぜなら子守たちは密かにその男の子に言葉を教えてしまったのだ。

 

Wikipedia フランス語版

Le chroniqueur Salimbene de Adam raconte que l'empereur aurait confié à des nourrices plusieurs nouveau-nés avec ordre de ne jamais leur adresser la parole, désireux de savoir dans quelle langue ils s’exprimeraient. De fait, tous ces enfants seraient morts les uns après les autres.

年代記作家のSalimbeneによれば、皇帝は数名の赤子を乳母に預け、喋りかけるのを禁じた。赤子たちが将来どんな言語を発するのかを調べるためである。実際には、この子供達は次々と死んでしまった。

 

Ces anecdotes ont probablement été inventées par Salimbene, et l'on trouve la première chez Hérodote.

Gouguenheim, 2015

 

おそらくSalimbeneのこの記述は彼の創作であろう。ヘロドトスに類似の内容が見られる。

 

【参考】

上記はヘロドトスの「歴史」におけるエジプト第26王朝の初代ファラオ プサムテク1世のエピソードと思われる。

以下はWiki英語版”Psamtik I”のページより。

 

The Greek historian Herodotus conveyed an anecdote about Psamtik in the second volume of his Histories (2.2). During his visit to Egypt, Herodotus heard that Psammetichus ("Psamṯik") sought to discover the origin of language by conducting an experiment with two children.

(略)ヘロドトスがエジプトで聞いたところによると、プサムテクは「言語の起源」を解き明かすため2人の赤子を用いて実験した。

 

Allegedly he gave two newborn babies to a shepherd, with the instructions that no one should speak to them, but that the shepherd should feed and care for them while listening to determine their first words. The hypothesis was that the first word would be uttered in the root language of all people.

プサムテクは2人の赤子を羊飼いに託し、彼らの前で喋ることを禁じた。この赤子たちが発する最初の言葉が、全世界の言葉の基幹言語である、という仮説を立てたのである、

 

When one of the children cried "βεκός" (bekós) with outstretched arms, the shepherd reported this to Psammetichus, who concluded that the word was Phrygian because that was the sound of the Phrygian word for "bread". Thus, they concluded that the Phrygians were an older people than the Egyptians, and that Phrygian was the original language of men. There are no other extant sources to verify this story.

ある日、赤子の1人は腕を伸ばし"βεκός" 「ベコス」と叫んだ。これはフリュギア語の「パン」を意味する語である。プサムテクは、フリュギア語こそが言語の起源であると結論づけた。この一連の記述に関し、ヘロドトス以外の情報ソースは現存しない。

 

ちなみにフリュギア語"βεκός" (bekós)は英語bakeと同根

 

四言語版Wikipedia 内容の異同

Wiki言語

英語

スペイン語

フランス語

赤ん坊の人数

複数

複数

1人(男子)

複数

語りかけ

無し

無し

密かに有り

無し

スキンシップ

無し

無し?

不明

不明

赤ん坊の生死

早逝

早逝?

不明。生存か。

早逝

 

 

まとめと新たな疑問

・フリードリッヒ2世の実験に関しては、SalimbeneCronica しかソースはなさそう。このテキストを当たってみる事が、本件のさらなる考察に関し必要と思われる。

・(おそらく)同一ソースを参照しながら、スペイン語Wikiだけ赤子が1人しかおらず、かつ言葉を教えてしまっているのが不可解。でもこのスペイン語verが一番ましなルートだろう。男児は生き残って、後にひとかどの人物になってくれていると個人的に嬉しい。

Cronica の文脈を要確認だが、赤子(たち)の死因はスキンシップ不足なのだろうか?(Cronicaには死因の明記はないのでは?)

・上記と同様だが、赤子の50人という数字は出典不明。

パラディ島の名前について île paradis

進撃の巨人の舞台「パラディ島」の名前の由来はフランス語paradis「楽園」。

(英)paradise も(仏)paradisも(羅)paradisus由来だが、これは(古希)παράδεισος(parádeisos)「楽園/庭」を経由して(イラン祖語)*paridayjah「(壁に囲まれた)庭」に遡れる。


「壁に囲まれた楽園」パラディ島、というダブルミーニングが示唆される、よく出来たネーミングだと思われる。


ところで、あえてフランス語のパラディparadis が選ばれた理由はなんだろうか?

なぜ、

パラダイス(英)paradise

パラディース(独)Paradies

パライソ(西)paraíso 

パラディーソ(伊)paradiso 

ではなかったのか?


まあ普通に考えて語呂の良さでフランス語が選ばれた可能性が高いが、言外に「楽園の子供達」= “Les enfants du paradis”(レザンファンデュパラディ)※仏映画「天井桟敷の人々」原題 へのオマージュがあったりするんだろうか。


エレン、ミカサ、アルミン、あるいはライナーたちも含めて、過酷な運命を背負った楽園の子供達の物語…


てなことを作者が含意してたかどうかは定かでは無いですけどね。


ジェミー・ボタンについて

ティエラ・デル・フエゴにかつて住んでいたヤーガン族、その中で歴史上に名前を残したほぼ唯一の者といえそうなのがジェミー・ボタンである。Wikipedia日本語版には彼の独立記事はない。というわけで、Wikipedia英語版の記事を参照しながら彼の人生を下記する。

en.wikipedia.org

 

チャールズ・ダーウィンが乗り込んだビーグル号が英国を発ったのは1831年12月27日。

ダーウィンはこの船上で3人の「南米人」に出会った。パタゴニアのティエラ・デル・フエゴ諸島出身の先住民族である。

この3人のうちの1人、ヤーガン族の"ジェミー・ボタン"はダーウィンの印象に残ったようで、彼の「ビーグル号航海記」に何度か登場することになる。

この名前を聞けば、児童文学に親しんだ者はおや、と思うだろう。そう、彼の名前は「ジム・ボタンの冒険」(ミヒャエル・エンデ)の元ネタになったと言われている。

彼の本名"Orundellico"の「ヤーガン語での」発音だが、スペイン式に濁らない「オルンデリーコ」か、南米一般のジェイスモの発音で「オルンデジーコ」か、あるいはアルゼンチン訛り風に「オルンデシーコ」なのか...よく分からない。まさか英語風に「オランドリコ」ではないと思うが...と思ったら、どうやらローマ字読みして「オルンデリコ」が適当か?

※下記リンク先は、ビーグル号の船長、ロバート・フィッツロイによる1839年の著作"Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe"より、ヤーガン語と英語の対照表。「o'rundel'lico」の表記あり

Page 141 - Narrative of the surveying voyages ... appendix to vol. 2

 

ジェミーはフエゴ島出身であり、同島は現在チリとアルゼンチンによって領有されているが、島に国境線がひかれたのは1881年のことである。したがって、はたしてジェミーがチリ人だったのかアルゼンチン人だったのかは判然としない。(そもそもどちらにも属していないのかも)

ヤーガン族を含むフエゴ島民の当時の暮らしや文化について詳説は省くが、極寒のパタゴニアで服を着ず家も作らず、漁労や狩猟で暮らしていた。独自の言語を持っていたが、文字は持たなかった。(またググった限りでは、ヤーガン族がセルクナム族のような独自の神話体系を持っていたのかどうかはよくわからない。)

出アフリカ以降グレート・ジャーニーを続けた人類が、その果てでついに南極海に突き当たった旅の終わりの地がこのティエラ・デル・フエゴである。偉大な旅路のいわば最先頭にいた人々の子孫の生活は、驚くほど原始的な水準に留まっていた。...あるいはある種の退化がそこに認められるのかもしれない。

 

1830年フエゴ島。ビーグル号(1回目の航海)の船長、フィッツロイのボートを盗んだフエゴ島民のグループは、逆にヨーロッパ人達に捕らえられてしまう。その一団の中にジェミーがいたかどうかはよくわからないが、その後の経緯で「真珠貝のボタン」(mother of pearl bottun)と引き換えに、いわば人身売買の形でフィッツロイの手元に置かれたのが、およそ15歳のオルデンリコ、のちのジェミー・ボタンであった。

※パトリシオ・グスマンのドキュメンタリー映画「真珠のボタン(原題:El Boton de Nacal, 英題:The Pearl Button)」の邦題にはやや疑問が残る。ふつう、真珠貝の貝殻から削り出したボタンを指して「真珠のボタン」とは言わないのでは...と思ったらそういう用法もあるらしい。時に「真珠ボタン」とも。

 

ジェミーを含む4人のフエゴ島民はそのままビーグル号で英国へと連れられ(不幸にもうち一人は病死してしまうが)、そこでフィッツロイの庇護のもとロンドンで英語およびキリスト教教育を受ける。ジェミーの英国暮らしは1年余りに過ぎなかったが、それなりに英語を習得したらしい。さすが15歳の頭脳、というべきだろうか。

英国滞在中、3人のフエゴ島民のロンドンでの暮らしぶりはそれなりの頻度で新聞に取り上げられていたようで、一種のブームだったと思われる。結果、ジェミーたちは当時の英国王ウィリアム4世の謁見を賜るという栄誉まで得たのだった。

そして舞台は冒頭に戻り、1831年12月27日、ビーグル号は再び船長フィッツロイに率いられ、英国プリマス港から出港した。航海の主目的は南米沿岸の精密な測量であり、そこに同乗する形で3人のフエゴ島民は帰郷の途に就くことになった。

当時最先端の文明世界で暮らした後で、世界で最も後進的とすら思われる文化圏に舞い戻るー3人がこの点についてどう考えていたのかは定かではない。

ただ少なくともジェミーは、英国で着ていた服を脱ぎ捨て、フエゴ島の暮らしに速やかに順応したようである。

ジェミーらをフエゴ島で下船させた数か月後、ビーグル号は再び同島に立ち寄り、そこでダーウィンらは全裸になり髪も伸び放題になったジェミーに再会している。その際(おそらくフィッツロイから)「英国に戻らないか?」と打診されるも、ジェミーはこの誘いを断って同地に留まったのだった。

ダーウィンがジェミーと再会することはもう無かったが、彼らフエゴ島民との出会いがダーウィンのその後の進化にまつわる研究・発想にある種の影響を与えていた可能性は大いに考えられるであろう。

 

en.wikipedia.org

上記のビーグル号の航海の後、1844年に英国で「パタゴニア宣教団」が組織され、フエゴ諸島原住民に対するのキリスト教の宣教が開始された。

主に文化の違いから、宣教活動は困難を極めたようである。極めて過酷な気象環境や原住民との対立により、宣教団は複数の犠牲者、すなわち殉教者を出していた。ただ極めてゆっくりとではあるが、先住民のキリスト教化が進んでいった。

そして1855年11月1日、宣教団はフエゴ島対岸のナバリノ島で英語を話す原住民ーすなわちジェミー・ボタンに遭遇した。

宣教活動の中でジェミーがなんらかの役割を果たしたのか、はWikipedia記事だけからはよく分からない。ジェミーとその家族に対してもある種の教化プログラムが為されたが、長続きはせず、最終的に先住民たちの多くは元の住処である野山や島々へ帰ってしまったようである。

そして1859年に事件が起こる。

宣教団はナバリノ島西岸のウライア海岸に小さな教会を建設し、そこで日曜のミサを執り行ったが、その際に先住民の集団に襲撃され、その場にいた西洋人9人のうち8人が撲殺された。「ウライアの虐殺」である。

襲撃の背景は詳らかでないが、宣教(英語教育)の過程で西洋人と先住民間で感情的な諍いが起きていたと言われる。

一説によれば、この虐殺を主導したのはジェミーとその家族たちであった。

これほどの死者を出した事件であり、当然ながら英国はある種の捜査を実施した。1860年にジェミーがフォークランド諸島を訪れ、「容疑者」として審問を受けた際には、虐殺への関与を否定している。

犯人の処罰や先住民への報復を求める声は大きかったが、結局英国政府は誰一人罰することはしなかった。

ジェミーが亡くなったのは、1864のことである。

フエゴ島民は徐々に教化され、また一方で西洋人の持ち込んだ伝染病が猛威を振るい、急速に人口を減らしていった。2021年1月現在、ヤーガン語のネイティブスピーカーはたった一人、チリに住む92歳のクリスティーナ・カルデロン(通称"Abuela"=「お婆ちゃん」)のみである。

 

de.wikipedia.org

 

Julia Voss - Wikipedia

 

最後に、ミヒャエル・エンデの「ジム・ボタンの冒険」について。

ドイツのジャーナリスト、Julia Vossによれば、1960年に出版されたこの児童文学には、ナチスドイツの社会進化論(及びダーウィン進化論の誤った解釈)に対するアンチテーゼが込められているという。

ワイマール共和政のドイツに生まれ、ナチス政権下で育ったエンデは、作中にナチスのシンボルや象徴を多く散りばめたうえで、その差別主義的側面に対抗し、それらを反人種主義/多文化主義イメージへと転換させている。

 主人公ジムボタンの(名前だけでなくそのキャラクターそのものの)モデルは、我らがヤーガン族のジェミー・ボタンその人であった。Vossはこう言い添える。

「ジム・ボタンこそが進化論を救うのだ」と。

 

 

www.faz.net

 

http://cse.naro.affrc.go.jp/minaka/files/Savage.html

 

ニュートンマスとニュートン祭

アイザック・ニュートンが1642年12月25日のクリスマス生まれな点に因み、12月25日をクリスマスではなく敢えて”Newtonmas”「ニュートンマス」と呼ぶ一種のジョークが存在する。

このNewtonmasなる単語の初出は割合古く、Wiktionaryによれば1892年9月のNature誌に「1890年のクリスマス、あるいはニュートンマスに帝国大学ニュートン会メンバー248人が物理学研究室に集まり云々」と。なんと東京帝大(現在の東大)が発祥の可能性があるようだ。

 

www.nature.com

本文が上記リンクでで参照できる。暇なので下記抄訳する。

 -------------------------ここから引用--------------------------

“A New Sect of Hero-Worshippers(英雄崇拝の宗派)”の見出しで、Japan Mail紙
が興味深い会(society)を報じている。
この会「ニュートン会」は日本でアイザックニュートンの栄誉を称えるべく設立され、
科学協会というよりは一種の結社というべきものである。
毎年クリスマスに開催される。すなわち1642年のクリスマスに不滅のニュートンが生まれたことにちなむ。
会則はシンプルである。メンバーは東大の数学・天文学・物理学の教授あるいは
卒業生あるいは学生である(ex officio members)。
一度会員だったものは常にその資格を持ち、例外はない。
この会は学部生のための会としてフジサワ、タナカ、タナカダテ氏ら―東大数学科の輝かしき第一期卒業生3人組(triumvirate)―によって設立された。
初期のころは学生の寄宿舎で開催されたが、学部生たちが卒業し助手や教授となると、
大学のより便利な天文台(observatory)(のちに地震観測所として利用される)のホールを用いるようになった。
1890年のクリスマス、あるいはNewtonmasに、248人の「ニュートン会」メンバーが初めて物理学教室に集合し、歓談とともにプレゼントが配られた。
この会には会長がいない。代わりに、威厳あふれるニュートン肖像画が一座を睥睨していた。
会は議事録やメモを残さないが、そのシンプルな内容ゆえに代々のメンバーにその伝統を伝えている。
新入生と二年生による出し物がある一方で、教授陣は短めのスピーチをするが、けして堅苦しいものではない。
続いて幻灯機が、内輪受けを狙った面白おかしい写真を映し出す。
(中略)

“Yokohama Journal”によれば、クリスマスにニュートンの誕生日を毎年祝っているのはこのニュートン会のみのようである。 

この”Newtonmas”という単語をニュートンへの敬意とともに用いる英語話者は極めて少ない。

おそらく50年ほど前(1842年)、ケンブリッジ大学ニュートン生誕200周年が祝われたであろう。そして50年後(1942年)には300周年を英国と全ての文明世界で祝うのだろう。

しかし、日本国外のNewton Club=「ニュートン会」が日本のように毎年式典を催すかというと、日本が西洋人の美的感覚に深く影響したのと同様、その英雄崇拝の本能(instinct)に強く影響しなければ、決して考えられないことだ。

 -------------------------引用終わり--------------------------

 

さて、この「ニュートン会」だが、おそらくこれは東大理学部物理学科のメンバーが山上会館で毎年年末に行っている「ニュートン祭」の原型であろう。

また日本発と思われる「ニュートンマス」なる単語は、どうやら日本語には定着せず忘れ去られ、逆に現代の英語圏でごく稀に言及されているようである。

 

コロンブスのスペイン語

ウェブ上で興味深い論文を見つけた。

 

大航海時代の外国語学習--コロンブスの場合

(堀田, 2014)

愛知県立大学学術リポジトリ

 

コロンブスの書き残したスペイン語にはセディーユが含まれている。(当時のスペイン語では現在"z"を使う箇所で"ç"を使用)

 

また彼のスペイン語にはポルトガル語の影響が強い(厳密に言えばスペルミス)。彼は一時期リスボンに在住し、ポルトガル貴族の娘フェリパと結婚までしており、ポルトガル語の方がカステリャーノより得意だったらしい。

戦略爆撃の講義

東大教養学部にて、選択科目の近現代史で「戦略爆撃」をテーマにした異色の講義があった。※ずいぶん昔の話なので、さずがにもう無いと思われる

 

20世紀の戦略爆撃史を概観する内容で、日本軍による重慶爆撃に始まり、連合軍によるドレスデン爆撃、東京大空襲へとつながっていく。広島・長崎もカバーしていたと思われる(多分)。

印象に残っている内容を以下つらつらと挙げる。

 

重慶では零戦が当時としては空前の格闘能力を発揮、中国軍の戦闘機をことごとく撃墜した。おかげで日本軍の爆撃機重慶上空で十分すぎる程の滞空時間を確保できた。

ドレスデン爆撃に関係して、ヴォネガットの「スローターハウス5」を解説

・ドイツ各地への強力な戦略爆撃の結果、終戦後にボロボロのインフラ(道路・港湾等)が残された。→ここまで爆弾を落とす必要はなかったのでは?との意見が連合軍内部から出た程

東京大空襲ではB29の大編隊が低空で侵入。この時点で日本の迎撃機の脅威が低かったからこそ可能な作戦だった。本作戦を指揮したカーチス・E・ルメイはドイツへの無差別爆撃で功績をあげ、「屠殺王」の異名を取った人物。彼は「条件さえ整えば核兵器を使わずとも通常兵器の空爆だけで都市に壊滅的なダメージを与えられる」という自論を東京で実地証明する格好になった。

・ルメイは戦後、航空自衛隊から叙勲されている。→普段テンションの低そうな東大生たちが、さすがにこの時は気色ばんでいた

 

※「屠殺王」の件は日本語・英語でググってみてもそれらしい記述が見当たらず、自分の聞き違いor記憶違いの可能性あり。

ja.wikipedia.org日本語版Wikipediaには「日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された」とある。うーむ「鬼畜」を「屠殺王」と聞き違えたのだろうか...

beltの語源はエトルリア語

en.wiktionary.org

balteus - Wiktionary

エトルリア語に起源をもつラテン語balteus→ゲルマン祖語*baltijaz→英語belt

                   →スペイン語balteo

 

スペイン語balteoは「ベルト」の意味だがほとんど使われず、専らcinturónが用いられる。

 

ちなみにコンベアベルトのような回転を伴う帯状の部品については英語では単に"belt"であるが、スペイン語では"cinta"といい、"cinturón"とは区別する。