学部留年3
他学科の一限だけ出席する、という奇妙な生活が始まった。通勤・通学ラッシュに揺られ、東大前に通う日々。
長く昼夜逆転生活をしていた自分には早起きは苦行だった。一限が終わるとそそくさと(知り合いに会わないように)キャンパスを離れ、ゲーセン等で時間をつぶしていた。日中に帰宅すると昼寝してしまう→そのまま昼夜逆転してしまうので・・・
約一年ぶりに机について授業なるものを受けたわけだが、ノートを取る自分の字がひどく劣化していて悲しかった。自分の字の書き方を忘れてしまったかのようだ。恐らく筆圧を支える筋力が弱体化していることもあったのだろう。
この時既に、大学受験時に発揮された記憶力の良さはすっかり失われており、自分の数少ない長所の一つが永遠に損なわれてしまったことを予感して暗澹たる気持ちになったのをよく覚えている。
またこれとほぼ同時期、よせばいいのに何故か中島敦の山月記を再読し、己の境遇と重ね合わせて本気で泣いてしまった。多くの読者が己の中に李徴を見出し、「これは私のための物語だ」と思わせて(錯覚させて)しまう不思議な作品だと思う。
就活5
修士2年の夏、確かこの頃リクナビでは翌年度卒業(つまり1学年下)用のユーザー登録が既に始まっていたと思う。
自分はというと、相変わらず無内定な上に就活に全く手ごたえが無く、今年度中に内定を得るイメージはどうしても湧かなかった。母親がわざわざ情報を持ってきてくれた派遣会社だが、申し訳ないが結局応募せず。
いろいろ考えたが、当時の自分の辿りうるルートは以下のパターンのどれかだった。
①このまま就活を続けて、どこかしらから内定を得られるよう頑張る
②無内定のまま卒業(院修了)して既卒で就活続行
③就職留年して一から仕切り直す
因みに頭の片隅には
④就活戦線から一旦離脱して博士に進学。研究者を目指す
もチラついてはいたが・・・。
結果から言うと、自分は就留を選んだ。
もしあの時、大穴の④ルート=博士進学を選んでいれば、今頃どこで何をしていたであろうか?実は今でも時々考える。(多分アカポスは無理だったろう)
学部留年2
3年生の冬、卒論のテーマはどうなりそう?的な友人(他学部)の問いかけを適当にごまかしつつ、年度が終わろうとしていた。本当に全然大学に行かないまま・・・
一時期よりも引きこもり傾向は軽度になり、他学部の友人とはたまに会っていた。不登校の話は隠していたものの、授業に出てる雰囲気が全くないため、かなり不穏に思われていたらしい。
4年生の4月から、単位の挽回を試みて履修を再開した。
が、久しぶりに登校すると、キャンパス内のものすごい居心地の悪さに驚いた。まるで、ここにお前は必要とされてないのに何故来てるんだ?みたいな。
実際にそんな幻聴が聞こえたわけではないが、あのストレスは人生初体験だった。
学科の同級生に姿を見られるのが一番こたえた・・・というか恐怖だった。結果、知り合いの目を恐れるがあまり必修or選択必修科目は全く履修できなかった。今思えば、今更何のプライドを守っているんだ、という話なのだが。
しょうがなく、農学部内の他学科の授業を、それも同級生に一番会わなくて済みそうな一限ばかり履修することになった。
間違いなく、この時点で状況的にはだいぶ詰んでいたと思われる。
学部留年1
学部で留年した話。
東大では普通、まず教養課程2年、次に専門課程2年の4年間で卒業となる。恐らく現在も同じようなシステムだろう。
専門課程の2年間が、いわゆる学部生活といわれるやつであり、理系なら実習、実験、研究室選び、そして卒論作成等をこなすことになる。
自分は専門課程の1年目、つまり大学3年生(あるいは3回生)の時にほぼ留年を決めた。必修も選択必修も含め1単位も取らなかったのである。
授業には出ず、家でゴロゴロしていた。実家住だったにも関わらず、である。
両親は共働きで、自分の不登校(というかほぼ引きこもり)に気づかなかった。最終的にはさすがに感づいてはいた可能性もあるが・・・。
当時の自分に何が起こったのかと言うと、以下の流れであった。
(1)自宅にADSL開通、大学の図書館や駒場の情報教育棟(って名前だっけ?)に行かずともネットし放題になる。
(2)当時の2ch等ネット文化に耽溺。無限に時間をつぶす。
(3)3年生の夏頃から昼夜逆転生活に。(AM4時就寝、PM3時起床)
(4)日中の時間帯の授業など出られるはずもなく、自主休講。
(5)何度かサボりが続くと、逆に大学に顔を出しづらくなってくる。
こんなしょうもない不登校の理由を説明するのも面倒。
(6)そして何度か朝起きようと試みるも、凄まじい眠気に勝てず結局二度寝してしまう。
(7)休み続ける。当然昼夜逆転生活も加速。
まあ、よくある話なのだろう。
数十人からなる学科の一学年の内、毎年1人内外は自分のようにひっそりと大学に来なくなり、留年→中退とずるずるドツボにはまっていくようだ。
3年生の秋口頃に研究室を決めるタイミングがあるのだが、登校していない自分にもメールで連絡が来た。適当に研究室名を書いて返信すると、そこに形式上所属することになった。
それから数年間、この研究室には盛大に迷惑をかけ続けることになるのだった・・・。
就活4
ある企業の募集が終わっていても、人事に直談判すれば(かつ内部的に内定辞退で内定者不足が生じていれば)採用試験を受けさせくれるケースもある・・・という噂もネット上にはあった。
が、当時の自分にそんな知恵は無かったし、そもそもその種の行動力が不足していた。
ただただリクナビで募集可能なところを検索して散発的にエントリー、を繰り返していたのだった。
そしてこの期に及んでも相談できる人間が周りにいなかったというならばひどく悲しい話であり、我が身の恥ずべき身の上を他人に開陳して恥をかくぐらいなら誰の力も借りない(でもネットの情報は信じる)、というのであれば自己責任ではあるがかなり痛々しい状況である。何にせよ、精神的には大分不健康な状態にあったと思う。
なかなか内定が出ない旨は一応両親には報告していた(実家住みだったので…)。
見かねたのか、母親が「ここでも受けてみたら?」と企業情報を持ってきた。いわゆる技術系の派遣会社であった。
就活3
新卒一括採用の傾向を残す日本社会にあって、多くの大学生にとって就活とは一世一代の勝負どころだろう。もちろん就活で失敗しても何らかの方法でリカバリーすることは不可能ではないが。
我が身を振り返ってみると、就活当時に上記のような認識(新卒一括採用のある種のヤバさ)が著しく欠けていたと思われる。まるで、火事になった家の中で遊び続ける子供のように、状況の深刻さを理解していなかったのである。
でもこういう学生ってたまに居ると思う。特に一部の高学歴に。
メガバンクの一般職に落ちた後で、某都市銀行や某信託銀行の二次募集(正社員)を受けたものの、これも全敗した。
6~7月の蒸し暑い東京を汗だくになりながらリクルートスーツで歩いていたわけだが、なかなかに惨憺たる状況であった。大学の研究室に顔を出すのが段々しんどくなっていった頃でもある。
就活2
修士2年の5月から就活を始めたが、何をすればいいのかよく分からず、とりあえず学内の就職セミナーに初めて行ってみた。
この時期に行われるセミナーということで、いわゆる大企業は皆無で、中規模のITやメーカー子会社等が参加していた。参加している学生の方も、なかなかに追い詰められている雰囲気。
そのうちの何社かにエントリーしてみることにした。いわゆる高学歴が行くような会社では全くないようなラインナップで、個人的には面接の練習になれば、というぐらいの気持ちだったのだが・・・
結果は全敗。全社から祈られてしまったのだった。面接対策も自己分析も何もしておらず、かなりひどい面接内容だったと思われる。
もう少し何かしてみるか、ということで、今度は某メガバンクの採用ページからエントリーしてみた。当然というべきか正社員の募集は終わっていた。しょうがないので、一般職に応募したのである。
集団面接会場の受付の社員からは、「東大の方ですか?今日は一般職の採用試験なんですが・・・」と困惑されてしまった。何かの間違いだと思われた訳だ(これって一種の学歴差別では?)。因みにここも落ちた。