学部留年7

それから、必修科目には毎回出席した(当たり前だが)。

とある実習では、教官が自分の顔を見て「お!戻ってきたな!」と妙にうれしそうにしていた。毎年のようにフェードアウトしていく学生がいる一方、戻ってくるやつもたまにいるということらしい。

 

自分が留年生だという事実は、すぐ皆の間で共有された。皆はじめは一様に驚いて(呆れて)いたが、すぐに慣れてしまったようだ。

気付けば自分は、比喩的に言えば2学年下のクラスに転入していた。

その「クラス」の中での自分はかなり不思議な存在だったろう。専門課程の基礎的な授業を履修しながら並行して卒論のデータを集めていたわけで、順番がおかしい。

 

自分は異分子だったが、幸いにも排除されることは無かった。留年ネタでいじり倒されることもなく、むしろ気遣われていたような・・・

まあ二十歳を過ぎた成人の集団なので、そんなものなのかもしれないが。

 

そして、自分も「クラス」の中で何人か気の合う友人のようなものが出来、それはいつしか、男女10人程のグループのようになっていった。中学時代からずっと陰キャで通してきた自分にとっては、かなり不思議な環境が出来上がっていた。

学部留年6

5回生の4月、学科の最初の授業。

 

教室では見知らぬ学生(主に3回生)たちが席に着いてザワザワしていた。

進振り直後にあった学科のオリエンテーションで一度顔合わせはしているはずだが、専門課程一回目の選択必修授業(座学)で、まだお互いの顔と名前もあまり覚えておらず、といった格好。

教室の入り口をくぐるときに自分は思った。

「登校拒否だった子供が久しぶりに学校に来たら、こんな感覚を味わうのだろうか・・・」

実際の所、この例えは正確でない。この場合教室内の学生たちは誰一人自分の事を知らず、せいぜい「こんなやついたっけ?」と思われるぐらいである。

 

そんな教室に恥を忍んでよろよろと入っていったのだ。

隣に座った学生が気さくに話しかけてきたが、まさか相手が2学年上の留年生だとは気付いていない様子だった。自分はといえば、久しぶりに人と会話したような気がする。実は後に、彼とは同じ実験室に所属することになるのだった。

(Kよありがとう!あの時話しかけてくれて、どれだけ助かったか分からない)

 

教室を見まわしながら、こいつらとこれから1年一緒にやっていくのか・・・と、複雑な気持ちで嘆息していた。

今でもたまに夢に見る、長い一年の始まりである。

学部留年5

教官に呼び出され、ほぼ初めて自分の所属する研究室内に入った。

そして面談の中で、以下2点を残り1年で仕上げる計画を提案された。

・単位取得:残り100単位近く

・卒論作成:単位取得を最優先して、残った時間でできる実験計画を作成

 

今思うと、えらく面倒見の良い教官である。

自分の卒論指導も買って出てくれた。というか彼がイニシアチブを発揮する以外に、自分のような問題児を卒業させるという力技は不可能だったのだろう。

 

単位取得のため、必修科目は勿論として、選択科目も基本的にほぼ全コマ(すなわち月~金の1~5限)履修することになった。一般的な大学生活を経験した人ならお分かりだろうが、肉体的・精神的にかなり無理がある計画である。

 

そしてこの計画の中で個人的に一番きつかったのは、2学年下の下級生たちにまじって多くの必修科目(実験/実習)をこなさなくてはならないという点だった。5回生(5年生、あるいは2回目の4年生)の春にこのハードルを越えられないと、早々にもう一年の留年が決まるという格好である。その場合、休学or中退の二文字がちらついてくる。

 

時間はあっという間に過ぎ、5回生の4月がやってきた。

学部留年4

4年生の夏学期に取得した単位は、確か4コマ8単位だったと思う。

卒業に必要な単位に比べると微々たるものだが、1年ぶりに取った単位でもある。

 

大学は勉強と研究の場であるが、この国ではそれとはいささか異なった側面も持っている。それはすなわち、専攻内容にかかわらず、卒業要件を満たす卒業見込みとなって初めて、学生は新卒として就活に臨めるという点である。

この点にだけ注目すると、あたかも新卒チケットを得るため、学費を払って単位を買っているような様相を呈してくる。

自分の3年生時の学費も上乗せされていると考えると、本当に単価の高い(コスパの悪い)8単位になったものである。

 

4年生の冬学期も、夏学期と同様に他学科の一限ばかり履修することになったが、当然ながら卒業に必要な単位には全く達しないので、卒論以前の問題として留年が確定していた。

親に留年の事実を告げたのは4年生の冬頃だった。両親の、特に母親の悲嘆ぶりはひどく、まあそれまでは東大に現役合格した自慢の息子と思われていたわけで、留年の不名誉というのはまさに青天の霹靂であったろう。

 

形式上所属している研究室には全く顔を出さず、まるでリハビリでもしているかのようにチマチマ他学科の授業を履修していたわけだが、さすがにこの時期にはラボの教官に呼び出しを食らった。卒業の意志があるのか(つまりいずれ卒論を書くのか)という確認である。

就活7

就留すると決めたのは修士2年の初秋の頃だった。

 

親ははじめ全く理解できないという格好だったが、結局は折れてくれた。そもそも卒業する気があるのか?と本気で心配していたようではあるが。

 

指導教官には就留を決めた旨を伝え、修論の執筆を一年遅らせることになった。今思うと、ここで修論の指導を投げ出されてしまうリスクがあったような気もするが・・・データ集めもう一年できるね!新たな実験計画いくつか考えといてね!学会発表もしようね!という意外とポジティブな(?)反応が返ってきた。もっとも内心では、おいおいなんちゅう手のかかる学生だよ、ちゃんと修論書く気あるのか?と思われていた可能性が大である。

 

記憶によれば、就留に伴う事務的な手続きは全く不要で、修論を提出しないことで自動的に留年するシステムになっていた。

 

うーむ自分はこの先どうなるのだろうか・・・等と思いながら、翌年度卒業生向けのリクナビにユーザー登録したのだった。

就活6

就職留年には分かりやすいデメリットが2つある。

①学歴に傷がつくので選考の際に考慮(マイナス評価)される可能性がある

②定年退職するまでの勤続年数が1年減る

 

①のリスクは志望業界によっては慎重に分析するべきだろう。既に1年orそれ以上留年しているなら、何をかいわんやである。自分の経験では、最終面接までにまず間違いなく留年の理由を聞かれるはず。

 

②は終身雇用制の崩壊しつつある現代において若干皮算用ではあるが、定年退職直前の、数百万円、あるいはそれなりの大企業なら一千万円を超える年収一年分を失うリスクがあるということは留意してしかるべきだろう。

因みに皮算用ついでに、これを月ベースに換算してみよう。仮に超ざっくり、額面年収一千万円の時の手取りを7百万円とする。勤続年数40年なら、

7,000,000÷40÷12=14,583円/月

となる。つまり②のリスクを言い換えると、生涯にわたって月収が1万5千円ダウンするとも言える・・・かもしれない。実際にはボーナスも絡むので、リスク額はもう少しマイルドになると思われる。(当然ながら、留年に伴って発生する学費のかかり増しを考慮すると、就留のリスクはもう少し増大する)

見方を変えると、毎月の支出から一万円前後を節約して貯金する、しかもそれを退職まで継続するというのは並大抵の節約ではない。なので浪人も留年もせずに入社した人は、同期よりも生涯年収の点でだいぶ好条件にあると言えるだろう。

 

まあ、それでも自分は就留を選んだ。

学部留年3

他学科の一限だけ出席する、という奇妙な生活が始まった。通勤・通学ラッシュに揺られ、東大前に通う日々。

長く昼夜逆転生活をしていた自分には早起きは苦行だった。一限が終わるとそそくさと(知り合いに会わないように)キャンパスを離れ、ゲーセン等で時間をつぶしていた。日中に帰宅すると昼寝してしまう→そのまま昼夜逆転してしまうので・・・

約一年ぶりに机について授業なるものを受けたわけだが、ノートを取る自分の字がひどく劣化していて悲しかった。自分の字の書き方を忘れてしまったかのようだ。恐らく筆圧を支える筋力が弱体化していることもあったのだろう。

この時既に、大学受験時に発揮された記憶力の良さはすっかり失われており、自分の数少ない長所の一つが永遠に損なわれてしまったことを予感して暗澹たる気持ちになったのをよく覚えている。

 

またこれとほぼ同時期、よせばいいのに何故か中島敦山月記を再読し、己の境遇と重ね合わせて本気で泣いてしまった。多くの読者が己の中に李徴を見出し、「これは私のための物語だ」と思わせて(錯覚させて)しまう不思議な作品だと思う。