パセリの虐殺
「シボレス (英語: Shibboleth) は、ある社会集団の構成員と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語」である。
上記Wikiで紹介されているシボレスの一例「パセリの虐殺」(パセリ大虐殺とも)については、日本語Wikiに該当ページがなく、その詳細について日本ではあまり知られていないと思われる。
舞台となったのはカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島。この北海道より少し小さな(それでも十分大きいが)島の東側三分の二がドミニカ共和国、西側三分の一がハイチ領となっている。(注:以後「ドミニカ」は「ドミニカ共和国」を指す。ドミニカ国はこの記事には関係ありません。念のため。)
島の東側・ドミニカは旧スペイン植民地でスペイン語を話し、ムラート(ヨーロッパ系・アフリカ系・アメリカ先住民の混血)が多数を占める。島の西側・ハイチは旧フランス植民地でフランス語を話し、アフリカ系が9割を占める黒人国家。
この、スペイン語とフランス語という二つの言語は島の呼び名にも影響しており、島の名前がやたらと何通りもある。イスパニョーラ(Hispaniola)島、エスパニョーラ(La Española)島、サンドミンゴ(San Domingo)島、サントドミンゴ島(Santo Domingo)、ハイチorアイチ(Haiti)島等である。
15世紀末にコロンブスに発見されて以降、このイスパニョーラ島はスペイン植民地となった(もちろんそれ以前は先住民が治めていたわけだが)。しかしスペイン本国の国力の衰え・英海賊フランシス・ドレークの略奪・天災etcの要因が重なり、島の西側からからのフランス植民者の侵入を防げなくなっていく。1697年、レイスウェイク条約により島の西側は正式にフランス領(後のハイチ)となる。ちなみにこの条約はヨーロッパを主戦場とした大同盟戦争終結に関わる多国間条約だが、カリブ海の島の領土調停もついでに行っていたわけだ。
ちなみにハイチは1804年までサン・ドマングと呼ばれていたが、ここ出身のムラートで、フランス貴族の父と黒人奴隷の母の間に生まれた男が18世紀にフランス本国で軍人として出世し、ナポレオンに仕えて大活躍した。トマ・アレクサンドル・デュマ将軍であり、その息子こそが「三銃士」の作者アレクサンドル・デュマ・ペールである。閑話休題。
現場となったのは島の東、ドミニカ側である。時は1937年10月。当時のドミニカはラファエル・トルヒージョ大統領の独裁政権。
一方ハイチは1804年にフランスから独立した後に混乱を経て、1915~1934の間は米国に占領されていた。米軍が撤退した後のハイチは相変わらず政治的・経済的混乱にみまわれていくがのだが、1937年当時は民政移行直後であり、ステニオ・ヴィンセント大統領政権下。因みに彼はムラートであったが、彼以降のハイチ大統領はもっぱらアフリカ系である。
以下、下記英語版Wikiより引用する。
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摘要
1937年にドミニカで起きた「パセリの虐殺」では多数のハイチ人が殺害された。
虐殺者たちはハイチ人を見分けるため、「パセリ(スペイン語で"perejil")」という言葉を相手に言わせ、うまく発音できなかった者はハイチ人と見なされて殺されたという。
出来事
1937年10月2日、ドミニカ共和国のトルヒージョ大統領はハイチ国境に近いダハボンでダンスパーティーを主催、その中で以下のスピーチを行った。
「私は数カ月にわたりハイチ国境付近の地域を視察したが、今やドミニカ人は、国内のハイチ人によって抑圧されている。家畜、果物、食料が盗まれ、平和で生産的な生活が妨害されている。
私がこれを正そう。
我々は既に、この状況への対応を開始した。バニカ(これも国境近くのドミニカの町)で300人のハイチ人が死んだ。今後もこの『対応』を継続する」
トルヒージョの「明確な」指示に従い、主にドミニカ軍によって20,000人近いハイチ人が国境付近で殺されたが、正確な人数はいまだにはっきりとしていない。目撃者/生存者は少なく、また死体の多くが海でサメの餌となり、あるいは酸性の土中で速やかに分解され、虐殺の証拠が残りづらかったのだ。
ドミニカ国内のハイチ人殺害を命じられた数百人規模のドミニカ軍が10月2日から8日にかけて国境地帯に展開し、犠牲者はライフル、マチェテ(山刀)、スコップ、ナイフ、銃剣等で殺害された。ハイチ人の子供を投げあげ、空中で銃剣で串刺しにし、母親の死体の上に投げ捨てるといった行為が報告されている。
のちに在ハイチ米公使館の報告したところでは、このような非人道的な命令を実行するため、ドミニカ兵は前後不覚になるまで泥酔していたという。
経緯
当時の状況としては、島の東側5/8の面積を占めるドミニカの人口は1000万人程。対してハイチには同程度の人口が島の西側3/8に住んでおり、その人口密度は500人/平方マイル(約193人/km^2)に達していた。この人口が圧力となり、多くのハイチ人が耕作可能地を求めてドミニカ側に越境することになった。
国境地域(ドミニカ側)のハイチ人定住者の増加は、トルヒージョにとって頭痛の種だった。彼らの存在は国境を東方に再画定するハイチの動きにつながりかねなねず、また実際にハイチ人の越境が増えたことにより、ハイチ側からドミニカ側への各種商品の密輸入の問題も顕在化していく事になる。
ドミニカの反ハイチ感情の高揚は過去数十年の背景をもった複雑な経緯を持っていた。これは虐殺事件が起きてから80年が過ぎた現在も続いており、その背景にはハイチ人を「黒人」とみなすドミニカ側の伝統的な対ハイチ観が存在する。(一方でドミニカ人が自らを「白人」と規定しているかというと、必ずしもそうではない)
事件への反響
米国は、虐殺に使用された弾丸はドミニカ軍採用のクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルから発射されたものであり、ドミニカ兵のみがアクセス可能な武器と発表した。
事件後、トルヒージョは国境地帯の開発を進め、都市部との交通を改善させた。国境地帯にビル・学校・病院を建て、ハイウェイさえ通した。そして1937年以降、ハイチ人のドミニカへの入国制限が始まり、厳しい取り締まりが行われた。南部国境地帯では、ドミニカによるハイチ人の追放と殺害が継続し、こうした「ハイチ難民」の多くがマラリアとインフルエンザで命を落とした。
ハイチのヴィンセント大統領はフランクリン・ルーズベルト米大統領とともにドミニカに75万米ドルの賠償金を請求、内52.5万米ドル(2017年の価値に換算して9百万米ドル)が支払われた。しかしハイチ官僚の腐敗のため、死者一人につき30ドル、生存者は一人あたり2セントしか受け取れなかった。
ドミニカとトルヒージョに対する国際的な非難が高まり、トルヒージョに追放された亡命ドミニカ人等は彼を指して「故郷に対する裏切り者」と称した。
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引用終わり。非常にえぐい話であり、本件は両国の国民感情に深刻な影を落としたことは想像するに難くない。
スペイン語"perejil"「パセリ」の発音は[perexil]であり、カタカナ発音で「ペレヒル」と言ってもスペイン語話者に難なく通じると思われる(rの発音ができていればだが)。日本人からみてそんなに難しい単語ではなさそうな"perejil"だが、フランス語話者にとってはかなり言いづらい、と言われている。
まずスペイン語の[r]音(歯茎はじき音)は、英語の[r]とは微妙に違うものの日本人の耳にはほぼ同じように聞こえる。この音はフランス語にはない。代わりアルファベット"r"に対応するのが[ʁ](有声口蓋摩擦音)であり、喉を鳴らすようなこの音は日本人の耳にはしばしば「ハ行」音として聞こえる。つまりスペイン語の"r"とはかなり似ていない音ということになろう。
次にスペイン語の[x](j, gi, geに対応)だが、これは無声口蓋摩擦音。日本語にはない溜息のような響きを持つ音だが、日本人にとって特に発音が難しいという音でもない。この音もフランス語には無く、下記Wikiによれば、「無声軟口蓋摩擦音/x/はフランス語本来の音素ではなく、jotaやkhamsin、Huang Heといった借用語(主にスペイン語、アラビア語、中国語)で現れることがある。うまく発音できない人はrの音[ʀ]、[ʁ]や[k]に置き換え、つづりが"h"の場合は発音しない。」
つまり[r]の後に滑らかに[x]を繋げる"perejil"=[perexil]を上手く発音できない者がフランス語話者に多い、ということになるらしい。
テメロッソ・エル・ドラゴ
Fateのゲーム中に登場するフランシス・ドレイクの台詞「テメロッソエルドラゴ」
恐らく綴りは"Temeroso El Drago"になると思われるが、これについて海外のファンたちが議論している(リンク先参照)
・"El Drago"なのか"El Draque"なのか?日本語原文に従うなら"El Drago"だが…
注)現代スペイン語"drago"は竜血樹(リュウケツジュ)の意。一方の"Draque"は"Drake"のスペイン風の呼び名とされている。ドレークはスペイン人に"El Draque"と呼ばれていたらしい。
・「テメロッソ」は"temeroso"だと思うけど、"temerario"の方がいいのでは?両方とも一応「恐ろしい」の意味だが、前者だと「臆病者」のニュアンスが、後者なら「恐れられる・無謀な」のニュアンス。
・(↑に対するレス)"temeroso"でも「恐れられる」を表すし問題ない。ソースは西語話者の俺。
・文脈的には"valiente"「勇敢な・無謀な」の方が適当かも?
・彼女(ドレイクはゲーム中では女性です。念のため)は英国人だったんだ。スペイン語が怪しくても当たり前。
引用終わり。
ググってみたが、ドレイク="El Drago"「エル・ドラゴ」の記述はなかなか見つからない。また"El Drago"=「悪魔or竜」についても同様。(Fate関連ページしか見つからない。Fateが何をソースにしたのか気になる所である。)
Talk:Francis Drake/Archive 1 - Wikipedia
英語版WikiのドレイクのページでWikipedianが議論している所によると、
・"El Draque"は単なる"Drake"のスペイン風翻訳であり、人名以上の意味は無いはずだ。(→El Draqueに竜の意味は無い)
・16世紀に"El Draque"が何を意味していたのか、専門家の知識が必要だね。
ちなみに英語の普通名詞"drake"は「竜」を意味し、ラテン語"draco"「竜」を起源に持つ。
またスペイン語で「竜」は"dragón"。これはラテン語"draco"の奪格"dracone"由来である。どうやら、英語"dragon"もこのラテン語"dracone"から古フランス語経由で生じたようだ。
日本語版Wikiには以下のような記述がある。
「ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から」
さて、実際の所ドレークはスペイン人から"draco"「竜」と呼ばれていたのだろうか?
彼の名前をラテン語形にすると"Franciscus Draco"になるというのは、日本語版Wikiには出典が無いが、実際に例を見つけられる。16世紀の著述家・彫刻師で現在のベルギーに生まれたTheodor de Bryテオドール・ド・ブライの(ラテン語の)著作"Collectiones peregrinatiorum in Indiam orientalem et Indiam occidentalem (1590–1633)"ではドレークの北米上陸を描いており、そこでの名前の表記は"Franciscus Draco"である。
もっとも、Wikiラテン語版によれば"Drakus", "Dracus" "Draken"等々複数のラテン語表記バリエーションがあるようではあるが。
Franciscus Drakus - Vicipaedia
また、スペイン語版Wikiには、「スペインでは"Francisco Draque"の名で知られる」以外の「スペイン語の呼び名」は見当たらない。さらに言えば定冠詞付きの"El Draque"の件も、"draco"と呼ばれていたとも書かれていない
Francis Drake - Wikipedia, la enciclopedia libre
最後に、改めて英語版Wikiを見てみると、
「スペイン人には海賊"El Draque"として知られた」とある。その記述の出典は・・・なんと、先ほど紹介したテオドールの著作にリンクが張られている!
リンク先はラテン語で記述された資料であり、ドレークがスペイン人から何と呼ばれていたかには実は関係ない。
ここに至って、"Drake"="El Draque"すら怪しくなってしまった。ソース付きで確認できるのは、スペイン語版Wikiにある"Francisco Draque"のみである。
さて、そもそも大英帝国の英雄ドレイク船長が宿敵スペインから畏怖を込めて「竜」とか何らかの渾名で呼ばれていたというのは、いかにも出来過ぎな感じがしなくもないが・・・島津家の「鬼石曼子」みたいに。
<追記>
Armas antárticas - Juan de Miramontes Zuázola - Google ブックス
"El Draque"のソースを発見した!Armas antárticas, Juan de Miramontes Zuázola, 1609。16~17世紀のスペン軍人が書いた詩(「南極艦隊」とでも訳すのかな)に注釈をつけたものであり、2006年発行。
註釈よれば、ドレイクはカスティーリャ語(スペイン語)テキストでは普通"El Draque"と呼ばれ、時に"El Dragón"「エル・ドラゴン/竜」とも。
上記をふまえて、スペインを脅かした海賊ドレイクの異名をスペイン語で表現するとなると、例えば"El Dragón Temeroso"「エル・ドラゴン・テメローソ」が無難な所かな?
でもこれじゃ語感にかっこ良さが無いなw
また別のソースを発見したので追記。
A History of the British Presence in Chile: From Bloody Mary to Charles Darwin and the Decline of British Influence, William Edmundson, 2009
19世紀の記録では、チリやペルーではいう事を聞かない子供に"Aqui viene Draake" = "Here comes Drake!"「(悪い子の所には)ドレークが来るよ!」と言っておどかしたという。(Samuel Haigh, 1829)
これはローマ人にとってのハンニバルばりの恐れられっぷりであり、海賊/武人としてのドレークの面目躍如なのでは。
ここでは、彼のスペイン語の呼び名として"El Draque", "El draco", "Francisco Draguez", "Draake"等が確認できる。...ようやく"El draco"の記述に辿り着いたが、これはラテン語から中世スペイン語への借用語かな?
また、ここで筆者エドムンドソンはこう記している。
el draque in old Spanish means "the dragon"
→"el draque"は中世スペイン語では「竜」を意味する。
これが、私がウェブ上で唯一発見できた「ドレイクが『"el draque"=竜』と呼ばれていた」というソース(出版物)である。
また、ラテン語"draco"「竜」についてだが、Wiktionaryによれば教会ラテン語では「悪魔」も意味するらしい。
エドムンドソンとWiktionaryを共に信じるならば、以下のようになる。
・ドレイクはスペイン人に"el Draque"あるいは"el draco"と呼ばれることがあった。
・"el Draque"も"el draco"もスペイン語文脈の中では「竜」という意味らしい。(後者はラテン語からの借用語になると思われるが、その意味するところは恐らく「竜」なのだろう)
・"draco"については「悪魔」の意味を含むことがある。(Draqueについては不明)
→「エル・テメロッソ・ドラコ」or「エル・ドラコ・テメロッソ」が正しいスペイン語の形か?
...まあ、ゲーム中のドレイクの性別は女性なので、"La draco temerosa"「ラ・ドラコ・テメロッサ」となってもいいような...あるいは「雌竜」or「女悪魔(=Diabla)」を意味する"draca"なる形をでっちあげるか?
※偶然ですが現代英語"drake"の語源となる古英語は"draca"だそうです。
カカフエゴの意味 (&スピットファイアの由来)
英国海賊フランシス・ドレークが南米の太平洋岸で拿捕した、財宝を満載したスペイン船「カカフエゴ号」。
スペイン語"Cacafuego"って炎のウンコとでもいうような意味で、スペイン人はなんちゅう名前を船に付けてるんだ?
カカフエゴというのは愛称で、正式名称は長ったらしく「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン(Nuestra Señora de la Concepción)」。無原罪の聖母号、とでも訳すべきかな?
Nuestra Señora de la Concepción - Wikipedia
上記リンク先の英語版Wikiによれば、以下の通り
・カカフエゴは直訳すると、炎のウンコとか新鮮なウンコとか。
・イタリア語フィレンツェ方言"Cacafuoco"「拳銃」と同根か。
(炎を排出→火を噴く武器→火砲、 的な連想か)
・イタリア語"Cacafuoco"→英語"Spitfire"「大砲・怒りっぽい人」
スピットファイアは現代になって英戦闘機の名前に採用され、一躍有名に。
・一方で"Spitfire"がイタリア語"Cacafuoco"由来とするのは民間語源だとも。(結局どうなの?)
英語版Wikiにはこんな記事もあった。
イギリス海軍には"Spitfire"の名を冠する船が18世紀から20世紀にかけて複数存在した。この"Spitfire"という名前はドレークが拿捕したスペインのガレオン船"Cacafuego"の名を婉曲的に英訳したものである。
一方、戦闘機の方のスピットファイアの由来はヴィッカース・アームストロング社の役員ロバート・マクレーンRobert McLeanが娘アニー・ペンローズAnnie Penroseにつけていたあだ名"a little spiftire"「怒りん坊」だとも。
Supermarine Spitfire - Wikipedia
父娘で姓が違うのはペンローズが結婚後の姓だから、ということらしい。
ちなみにアニーは1911年7月3日生まれで、2011年10月2日に100歳で大往生している。図らずもニックネームが戦史・世界史に刻まれ、ついでに怒りっぽかったという性格についても語り継がれることになった彼女の生涯については、以下リンク先に詳しい。
彼女の100歳の誕生日には、横断幕を曳航した飛行機が家の上空を記念飛行した。横断幕に書かれていたメッセージは以下の通り。
"Happy 100th Birthday Spitfire Annie"
「100歳おめでとう、スピットファイア・アニー」
Anno Dominiの意味
西暦で使われる表記ADはラテン語"annō Dominī"の頭文字である。
これを日本語に直訳するとどうなるのか?日本語ウェブ上では複数説が並存しているようなので列挙してみる。
①日本語版Wikiによれば、"anno domini"は「主(イエス・キリスト)の年に」という意味である。つまり「主の年に」という説。
②こちらのWiki「西暦紀元」によれば、「その年の主」の意味。
③一方Wiktionary日本語版によれば、「主の年より」の意味。
日本語表現の幅を考慮しても、どうも①~③はそれぞれ別の内容を言っており、互いに矛盾しているように思われるのだが…。
元のラテン語については②のリンク先の記載が詳しいようなので以下転載する。
"西暦紀元を意味する中世ラテン語「anno Domini」は「その年の主」を意味するのだが、多くの場合、元々の語源の句である「anno Domini nostri Jesu Christi」からそのまま意味を抜き出して「その年の主」の代わりに「その年の救世主ーイエス・キリスト」と訳される。" (引用終わり)
ラテン語"Domini nostri Jesu Christi"は「われらのキリスト・主の」と訳されるのが妥当なところであり、"Domini"だけなら「主の」であろう。("Domini"は"Dominus"「主」の属格)
ということは、この時点で②の「その年の主」という訳はちょっとおかしいのでは?という格好になる。
次に①と③の違いについてだが、これは"anno"をどう訳すかという点に集約されるだろう。"anno"は"annus"「年」の奪格。
ラテン語の奪格は和訳するときに中々ややこしい格であるらしく、以下の意味プラスアルファを含む。
・分離の奪格:~から
・手段の奪格:~で、~を用いて
・時の奪格:~に
(※他にも用法があり、「奪う」という語感からはだいぶ離れた意味を含んでいる)
つまり、①「主の年に」は"annō"を「時の奪格」として、③「主の年より」は「分離の奪格」として解釈しているようだ。
③説の場合、分離の奪格に対応する何らかの動詞が省略されているというイメージなのかも?
ちなみに英語版Wikiでは"anno Domini"を"in the year of the Lord"と訳しており、①説「主の年に」に該当するようだ。ということは①説が適正なのかな?
スペイン語の青
また色の語源の話。
スペイン語で「青」はazul。
イタリア語ではazzurro、フランス語ではbleu、ドイツ語ではBlau、そして英語ではblue。
英独仏には、ゲルマン語系のblue系列(印欧語根"bhel-"にまで遡る)がある。一方で西伊のazul系列は当然古典ラテン語まで遡れるのかと思ったら、そんなことはなかった。
例えばazulはアラビア語のlāzawardを元に中世スペイン語から使用されているようだ。
Azul - Wikipedia, la enciclopedia libre
ちなみに古典ラテン語では青に該当するのはcaeruleusで、caelumは天空の意。
この単語はスペイン語の"cerúleo"、英語の"cerulean"等へと派生しているが、これらはセルリアンブルーの意味。古典ラテン語から各言語に直に(俗ラテン語を経由せず)借用されている一種の学術用語で、日常会話で頻繁に使われる色の単語ではないようだ。
余談だが古典ラテン語では「空色」はcaelestis。こちらはスペイン語celesteとしてしっかり受け継がれている。
古代ローマでは濃い青と空色or水色のニュアンスの違いを、caeruleusとcaelestisで区別していたのかな?スペイン語のazulとcelesteのように…。
疑問なのだが、スペイン語の前段階である俗ラテン語では「青」をどう表現していたのか?
アラビア語由来のazul系か、ラテン語caeruleus系か、あるいは全くの別系統の単語?
ググってはみたが皆目分からず。
しかしこのラテン語caeruleus系の「青」、西仏伊はもとよりルーマニア語に至るまで全く受け継がれておらずちょっとかわいそうな気が…。
<追記>
この、ラテン語caeruleusの影が薄い問題だが、Wikipediaの「青」の項目に既に記述があった。せっかくなので日英西それぞれのWikiから引用する。(英語、スペイン語についてはかなり意訳、及び端折っている)
■日本語:青 - Wikipedia
古代ローマでも青はあまり注目されず、青とされるラテン語のカエルレウス (caeruleus) はむしろ蝋の色、あるいは緑色、黒色を表していた(パストゥロー、p.24f.)。ローマでは青は喪服の色であり、何よりケルト人やゲルマン人などの野蛮さを象徴する憎むべき、もしくは回避すべき色であった。(中略)古代ギリシャ、古代ローマとも虹の色をさまざまに分類したがそこに青が加えられることはなかった。(パストゥロー、p.28ff)
※参考文献
・パストゥロー, ミシェル 『青の歴史』 松村 恵理, 松村 剛訳、筑摩書房、2005年
■英語:Blue - Wikipedia
ローマ人も(ギリシア人と同様、インドから)藍の染料であるインディゴを輸入していた。しかし彼らにとって青は労働者の着る服の色であり、一方貴族や金持ちの服は白・黒・赤・紫色だった。また青は服喪の色であり、そして蛮族の色だった。ユリウス・カエサルのガリア戦記によれば、ケルト人やゲルマン人が威嚇のために自身の顔を青く染めたり、白髪を青く染めたりしていたという。
だが一方で、古代ローマでは装飾のための青色が大いに使われてもいた。ウィトルウィウスによれば、ローマ人は青色顔料をインディゴから作ったり、またエジプトから直接輸入したりしている。ポンペイの壁画には鮮やかな青空を描いたフレスコ画があり、また同地の絵具商跡地から青色顔料が見つかっている。( Philip Ball, Bright Earth: Art and the Invention of Colour, p. 106)
ラテン語には「青」を表す何種類もの単語があった。caeruleus, caesius, glaucus, cyaneus, lividus, venetus, aerius, ferreus等々である。ゲルマン語由来のblavus(英語blue等と同根)、そしてアラビア語由来のazureus(スペイン語azul等の祖先)という、外来語由来の2つのみが、現在でも青を意味する単語として各言語に痕跡を残している。(Michel Pastoureau, Bleu: Histoire d'une couleur, p. 26.)
※参考文献
・Ball, Philip (2001). Bright Earth, Art, and the Invention of Colour. London: Penguin Group. p. 507
・Pastoureau, Michel (2000). Bleu: Histoire d'une couleur (in French). Paris: Editions du Seuil
■スペイン語:Azul - Wikipedia, la enciclopedia libre
「青」の言語学的諸問題
ラテン語とギリシア語において、青色はその言語的な表現の乏しさで特徴づけられている。19世紀の文献学では古代ギリシア・ローマ人が青色を視認できなかった可能性を提示してすらいる。
(中略)
実際には、ラテン語には青を表す多数の形容詞があるが(aerius, caeruleus, caesius, cyaneus, ferreus, glaucus, lividus, venetus等)、これらは一義的な意味を持たず、他の色も表した。青の厳格な定義は無く、これら単語のいずれかが「青色」として一貫して使われる事もなかった。(Pastoureau, Michel (2010). Azul: historia de un color. Madrid: Paidós Ibérica. p. 31–33)
※参考文献
・Pastoureau, Michel (2010). Azul: historia de un color. Madrid: Paidós Ibérica. p. 31–33
引用終わり。さて、どの版でもミシエル・パストゥロー 『青の歴史』が出典となっているのがわかるだろう。機会があれば目を通したいと思う。本書はフランス語で2000年に発行されているが、西語訳が2010年なのに対し和訳が2005年と、5年も早いのが興味深い。
また、英語版Wikiからは思わぬ収穫があった。ラテン語で「青」を表すblavusとazureusという2単語に出会った点である。Wiktionaryから芋づる式に、ラテン語*blāvusからスペイン語blaoが生じたとおぼしき事も分かった。blaoは古風な表現に留まり、日常的には使われないようではあるが。
しかし、Wiktionaryによると*blāvusは「再建された」古典ラテン語なのだが
Reconstruction:Latin/blavus - Wiktionary
現存するラテン語のテクストには*blāvusは登場しないということなのかな?
blancoの語源
スペイン語で「白色」に相当する単語はblanco。
イタリア語ではbianco、フランス語ではblanc。
これらに共通する語源は当然ラテン語、というか古典ラテン語まで遡れるのだろうと何となく思っていたのだが、そんなことはなかった。
Blanco - Wikipedia, la enciclopedia libre
上記Wikiによれば、
ゲルマン祖語:*blangkaz(輝き)→ゲルマン語派の何か(フランク語か?):*blank(輝き)→俗ラテン語:*blancus→スペイン語:blanco
という進化をたどっているという。
フランク族に代表されるゲルマン諸勢力が現在のフランス、イタリア半島、イベリア半島を飲み込んでいく中で、ゲルマン語が現地の俗ラテン語にある程度影響を与えたであろうことは想像できる。
因みに上記Wikiによれば、カステジャーノ(スペイン語)におけるblancoの初出は1140年から。意外と新しい。まだイベリア半島にイスラム勢力が残っていた時代である。
じゃあ由緒正しいラテン語では「白」を何と言っていたのかというと、albusが該当する。スペイン語にはalbo(白い)という形で残っているが、詩的表現に用いられるぐらいで日常会話ではあまり使われないようだ。
このゲルマン語の「白」:blankは英語では"blank"(空白)として受け継がれているようだが、面白いのは日常的な色の名前としては全く別の語である"white"があるという点だろう。
こちらは、ゲルマン祖語:*hwitaz(これも「輝き」の意)→古英語:hwit→英語:white
という流れ。(下記Wikiリンク参照)
余談だが、ネット上に「英語のblack、blankは同語源であり、blankは本来『白』の意味なので、白と黒が同じ語源を持っている」という内容が散見される。というわけでblackの語源もWiktionary先生に聞いてみた。
ゲルマン祖語:*blakaz(焼け焦げた)→古英語:blæc→英語:black
とあるが、blackの語源がblankと合流するという記述は見つけられず…
参考までに英語のblankの語源は以下の通り。(Wiktionaryによれば)
ゲルマン祖語:*blangkaz(輝き)→フランク語:*blank→古フランス語:blanc→中英語:blank, blonc, blaunc等→英語blank
英語においてblankもかつては「白い」という意味を持っていたようだが、現代英語では「空白」を専ら表すようになり、blank=「白」は詩的表現に限られるようだ。スペイン語においてラテン語由来の"albo"がゲルマン語由来の"blanco"にその座を譲ったのと似ていて、ちょっと面白い。
<追記>
上記Wiktionaryリンク先では各単語に対応する印欧祖語についても触れられているが、印欧祖語まで遡ってもblackとblankの語源(*bʰleg- と *bʰleyǵ-)は合流しない。
ただし、ものすごく似通った字面ではある…というか最初の4文字が共通しており、素人目に見ても親戚関係にある語だという感覚を持つ。
印欧祖語の語幹をグループ分けした印欧語根まで遡ると、初めてblackとblankの共通祖先とでもいうべき"bhel-"に辿り着いた。備忘録代わりに追記しておくことにする。
以下の日本語サイトで、英単語とそれに対応した印欧語根を検索できる。個人的に非常に興味深いサイトで、人によっては際限なく読みふけってしまうのではなかろうか。
"bhel-"は「輝く、燃える、白」等の多様な意味を含み、そこから膨大な語彙が子孫の言語(英独仏西伊.etc)に生じている。英語ではblue, bleach, blind, blond, blanket, black, flagrant, flameなどである。ここまで多様に適応放散してしまっている場合、単語AとBが同根だからといってだから何なんだ?とは思わないでもない。
上述した通り、blueもblackやblankと同根である。また、blankは日常英語では色の意味合いを失った一方で、blueは色の名前として元気に命脈を保っている。これら3つの単語の進化の流れを(主にWikitionaryを情報源に)表にすると以下の通り。
印欧語根 | *bhel- (輝く、燃える、白等) |
*bhel- (輝く、燃える、白等) |
*bhel- (輝く、燃える、白等) |
印欧祖語 | *bʰleg- (燃える、輝く) |
*bʰleyǵ-(輝く) | *bʰlēw- (黄、金髪、灰色) |
祖ゲルマン語 | *blakaz(焦げた) | *blankaz(白、輝く) | *blēwaz (青、ダークブルー) |
古フランク語 | *blāw, *blāo(青) | ||
フランク語 | *blank (輝く、白) | ||
俗ラテン語 | *blancus, | ||
古フランス語 | blanc | ||
古英語 | blæc(黒、インク) | *blǣw | |
中英語 | blank, blonc, blaunc | blewe, | |
英語 | black | blank | blue |
英語における接続法
スペイン語の接続法の使い方がとても難しい。
日本語では直説法/接続法なんて区別しないし、直感的に非常にわかりづらい。
先日、神戸市外国語大学の以下の論文を見つけた。
数百年前に日本を訪れた西洋人、主にスペイン・ポルトガルから来たキリスト教伝道師たちが日本語を理解しようとする中で、日本語には存在しない接続法を想定し、日本語のいくつかの言い回しを接続法として分類しようと試みていたという点が非常に興味深かった。
結論から言えば日本語には接続法は無いし、西洋人たちもしばらくしてそのことに気付くわけだが、個人的には少し違和感を持った。
それは、
「接続法って例えば英語にも無いよね?」
「何故、日本語が接続法を持たない言語である可能性をまず疑わなかったのか?」
この疑問は、ちょっとググればすぐに解決した。
「そもそも英語には接続法がある」
Wikipediaの上記ページにも書いてあるが、英語の
①仮定法過去:定番の"If I were a bird, I could fly."とか。
②仮定法過去完了:"If I had caught the train, ..." 「電車に間に合ってれば云々」とか。
等はスペイン語やポルトガル語等における接続法と同種の「法」"mood"ということになるらしい。※太字部分の動詞or助動詞が接続法をとっている。
①・②のケースは文法用語としては"subjunctive mood"に分類される。この"subjunctive mood"、和訳するならやはり「接続法」とするのが自然なのだろう。何故日本人は「仮定法」という用語を編み出したのだろうか…?
そしてさらに、Wikipediaにある3番目の「英語の接続法」例が
③仮定法現在:「彼がここにいる事が必要だ」"It is necesary that he be here."
である。自分はおそらく、学校で全くこれを習わなかった。(つまり大学受験英語の範囲外なのか?)習っていないがゆえに、that節の動詞が原型になっている上記の例文には違和感を覚える(笑) 。that節以下を"...that he should be here"とする事もでき、この場合も仮定法現在に分類されるらしい。しかしshouldはshallの過去形なのでは…?それにこのケース③は「仮定」という語のイメージからはかなり離れた用法だと思われる。
西:Es necesario que él esté acá.
英:It is necessary that he be here.
としっかり接続法で訳してくれた。
英語も一応接続法を持つということが分かったが、どうやらインド・ヨーロッパ語族は基本的にこのmoodを持つらしい。ということは英語の接続法はフランス語やあるいはラテン語の影響とかではなく、はるか昔の印欧祖語から受け継がれてきたのだろうか。
想像するに、16世紀に日本に来た伴天連達においては、中国語のような(接続法を持たない)非ヨーロッパ言語の素養を持った者は限られていたのではないか。それゆえ、冒頭に紹介した論文にあるように、日本語に接続法が無い、という可能性を見落としていたのではないだろうか。