学部留年9
5回生の冬学期の半ば。卒論は佳境を迎えようとしていた。
正直大した内容ではなく、過去に誰もやっていないだけで初歩的なテーマだったが、データは集まっていたので一応卒論としての格好はついたように思う。まあ指導教官の実験計画が上手く、物事が想定通り進んだということだろう。
月~金の日中は授業があるため、実験できるのは平日の夜か土日限定となる。今思えばよく体力が続いたものである。結局5回生の間、旅行の類は一度も行かなかった。
今風にいうと、なんとブラックな学部生活、という事になるのだろうか。
まあこのケースでは完全に自業自得なのだが。
さて問題は冬学期の単位である。全コマ履修のうえ、基本的に一つも落とせないというプレッシャーの中だったが・・・結論から言うと、履修した科目の単位は全て取得できていた。若干ギリギリではあるが、卒業単位を満たしたのである。
成績表を見ながら、4回生の頃からは想像もできないなぁ何とか卒業できそうだなぁと感慨にふけっていると、クラスの(下級生の)友人から連絡が入った。
自分の単位取得を祝って、飲み会を開催するとのことだった。
自分が主役の飲み会、というのは慣れないし苦手なのだが、その日の酒は不思議とうまかった。
酔っぱらってしょうもない事を喋っていた気もする。
「普通に大学に通って、普通に授業に出て普通に卒業するという事が、自分にとっては意外と高いハードルだったよ」
「でも世間の言う普通って案外そんなもんだよ。一年よく頑張ったよ」
「たまたま留年してこの面子でつるんでるんだから偶然って面白いよな?でももう留年するなよ!笑」
その場で、卒業祝いとして皆からいくつか贈り物をもらった。10年以上経った今でも、自分の机に飾ってある。
さて、この辺りで学部留年記としては一旦筆をおこうと思う。
学部留年8
5回生の夏学期が終わるころには、そのグループで集まって実習の課題をやったり、昼休みに根津でランチをしたり、下宿に集まって飲んだりするようになった。まるで普通の大学生生活である。
そのメンバー間では、卒論の実験と共に履修しまくった授業に追われている自分の去就というのは一つのイシューであったようで、よく心配されていた。
実際単位不足は深刻で、必修の多い夏学期にはそれほど単位を積み重ねることが出来なかったため、冬学期も引き続きほぼ全コマ選択科目履修という背水の陣をしく羽目になっていたのだ。
グループのメンバーの一人は、自分が単位のためだけに履修していた他学科の夕方の授業(普通こんなのは、よほど興味が無いと取らない)を、一人で授業を受けるのは退屈だろう、という理由で自分につきあって一緒に受講していた。
よっぽど暇なのか?と思わないでもないが、ただ一方で無性に有り難かったことを覚えている。
一つ付け加えておくと、そのグループうちの何人かは駒場で既に留年していた。
類は友を呼ぶということだろうか。
5回生の秋ごろ、院試を受けた。学部卒で就活する余裕は物理的に無かったので、修士に進む以外の選択肢は事実上なかった。
そもそも単位がそろって学部を卒業できるのか?という疑問符付きではあったが、院試には無事合格した。
この院試の試験勉強をした記憶があまり残っていない。過去問を農学部の何処かの棟で購入したような気もするが・・・この時期は忙しすぎたのだろう。今やほとんど記憶喪失である。
学部留年7
それから、必修科目には毎回出席した(当たり前だが)。
とある実習では、教官が自分の顔を見て「お!戻ってきたな!」と妙にうれしそうにしていた。毎年のようにフェードアウトしていく学生がいる一方、戻ってくるやつもたまにいるということらしい。
自分が留年生だという事実は、すぐ皆の間で共有された。皆はじめは一様に驚いて(呆れて)いたが、すぐに慣れてしまったようだ。
気付けば自分は、比喩的に言えば2学年下のクラスに転入していた。
その「クラス」の中での自分はかなり不思議な存在だったろう。専門課程の基礎的な授業を履修しながら並行して卒論のデータを集めていたわけで、順番がおかしい。
自分は異分子だったが、幸いにも排除されることは無かった。留年ネタでいじり倒されることもなく、むしろ気遣われていたような・・・
まあ二十歳を過ぎた成人の集団なので、そんなものなのかもしれないが。
そして、自分も「クラス」の中で何人か気の合う友人のようなものが出来、それはいつしか、男女10人程のグループのようになっていった。中学時代からずっと陰キャで通してきた自分にとっては、かなり不思議な環境が出来上がっていた。
学部留年6
5回生の4月、学科の最初の授業。
教室では見知らぬ学生(主に3回生)たちが席に着いてザワザワしていた。
進振り直後にあった学科のオリエンテーションで一度顔合わせはしているはずだが、専門課程一回目の選択必修授業(座学)で、まだお互いの顔と名前もあまり覚えておらず、といった格好。
教室の入り口をくぐるときに自分は思った。
「登校拒否だった子供が久しぶりに学校に来たら、こんな感覚を味わうのだろうか・・・」
実際の所、この例えは正確でない。この場合教室内の学生たちは誰一人自分の事を知らず、せいぜい「こんなやついたっけ?」と思われるぐらいである。
そんな教室に恥を忍んでよろよろと入っていったのだ。
隣に座った学生が気さくに話しかけてきたが、まさか相手が2学年上の留年生だとは気付いていない様子だった。自分はといえば、久しぶりに人と会話したような気がする。実は後に、彼とは同じ実験室に所属することになるのだった。
(Kよありがとう!あの時話しかけてくれて、どれだけ助かったか分からない)
教室を見まわしながら、こいつらとこれから1年一緒にやっていくのか・・・と、複雑な気持ちで嘆息していた。
今でもたまに夢に見る、長い一年の始まりである。
学部留年5
教官に呼び出され、ほぼ初めて自分の所属する研究室内に入った。
そして面談の中で、以下2点を残り1年で仕上げる計画を提案された。
・単位取得:残り100単位近く
・卒論作成:単位取得を最優先して、残った時間でできる実験計画を作成
今思うと、えらく面倒見の良い教官である。
自分の卒論指導も買って出てくれた。というか彼がイニシアチブを発揮する以外に、自分のような問題児を卒業させるという力技は不可能だったのだろう。
単位取得のため、必修科目は勿論として、選択科目も基本的にほぼ全コマ(すなわち月~金の1~5限)履修することになった。一般的な大学生活を経験した人ならお分かりだろうが、肉体的・精神的にかなり無理がある計画である。
そしてこの計画の中で個人的に一番きつかったのは、2学年下の下級生たちにまじって多くの必修科目(実験/実習)をこなさなくてはならないという点だった。5回生(5年生、あるいは2回目の4年生)の春にこのハードルを越えられないと、早々にもう一年の留年が決まるという格好である。その場合、休学or中退の二文字がちらついてくる。
時間はあっという間に過ぎ、5回生の4月がやってきた。
学部留年4
4年生の夏学期に取得した単位は、確か4コマ8単位だったと思う。
卒業に必要な単位に比べると微々たるものだが、1年ぶりに取った単位でもある。
大学は勉強と研究の場であるが、この国ではそれとはいささか異なった側面も持っている。それはすなわち、専攻内容にかかわらず、卒業要件を満たす卒業見込みとなって初めて、学生は新卒として就活に臨めるという点である。
この点にだけ注目すると、あたかも新卒チケットを得るため、学費を払って単位を買っているような様相を呈してくる。
自分の3年生時の学費も上乗せされていると考えると、本当に単価の高い(コスパの悪い)8単位になったものである。
4年生の冬学期も、夏学期と同様に他学科の一限ばかり履修することになったが、当然ながら卒業に必要な単位には全く達しないので、卒論以前の問題として留年が確定していた。
親に留年の事実を告げたのは4年生の冬頃だった。両親の、特に母親の悲嘆ぶりはひどく、まあそれまでは東大に現役合格した自慢の息子と思われていたわけで、留年の不名誉というのはまさに青天の霹靂であったろう。
形式上所属している研究室には全く顔を出さず、まるでリハビリでもしているかのようにチマチマ他学科の授業を履修していたわけだが、さすがにこの時期にはラボの教官に呼び出しを食らった。卒業の意志があるのか(つまりいずれ卒論を書くのか)という確認である。
就活7
就留すると決めたのは修士2年の初秋の頃だった。
親ははじめ全く理解できないという格好だったが、結局は折れてくれた。そもそも卒業する気があるのか?と本気で心配していたようではあるが。
指導教官には就留を決めた旨を伝え、修論の執筆を一年遅らせることになった。今思うと、ここで修論の指導を投げ出されてしまうリスクがあったような気もするが・・・データ集めもう一年できるね!新たな実験計画いくつか考えといてね!学会発表もしようね!という意外とポジティブな(?)反応が返ってきた。もっとも内心では、おいおいなんちゅう手のかかる学生だよ、ちゃんと修論書く気あるのか?と思われていた可能性が大である。
記憶によれば、就留に伴う事務的な手続きは全く不要で、修論を提出しないことで自動的に留年するシステムになっていた。
うーむ自分はこの先どうなるのだろうか・・・等と思いながら、翌年度卒業生向けのリクナビにユーザー登録したのだった。